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太宰治『右大臣 実朝』 

[2006/08/05] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 先日、「宇宙海賊キャプテンハーロック」最終回の話をして以来、気になってネットを探したり、少し考えてみたりしました。

太宰治 右大臣実朝

アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

 カタカナ表記が正しかったようですね。大変失礼いたしました。
 『右大臣 実朝』は、『吾妻鏡』からの引用文(漢語調)と、非業の死を遂げた鎌倉幕府三代将軍・源実朝の身辺近くに仕えていた「私」の回想文(古語風の語り言葉)が交互に入るような構成になっていて、その中でところどころに、将軍家(=実朝)のセリフが、特に印象的なカタカナ表記でふっと挿入されるという表現形式なので、勝手にひらがな表記にしてしまったのは、やっぱり良くないことだったようです。
 正直、WEB上で読むのも何だか似合わないような。なるべく書籍のかたちで読むべきものかもしれません。ちくま文庫の太宰治全集第6巻に入っているようです。
太宰治全集〈6〉 太宰治全集〈6〉
太宰 治 (1989/03)
筑摩書房

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 実朝には、その悲劇的な最期から来る先入観なのかもしれないのですが、私にもなぜか「暗い陰鬱な御性格」「文弱」という印象がありました。この作品は、その人物を「お心に一点のわだかまりも無い」類まれな貴種として描き、「御当人は案外あかるい気持で生きてゐる」さまが淡々と書き綴られている作品です。 
 「あかるさ」についての考察は、この一編の基調をなすテーマでもあるようで、和歌をはじめとした優れた文化を愛する京都のみやびへの親近感を示した場面では、「都ハ、アカルクテヨイ」というセリフが、やはり印象的に挿入されています。
 ちなみに語り部の「私」は、基本的に、実朝という貴種についての「批評がましいこと一切が、いとはしく無礼なもの」という立場で語っています。しかし「あかるさ」を取入れたいという、そのおおどかな心が「無邪気の霊感」につながり、「万人の群議にはるかにまさる素直な適切の御処置」となっているさまについては驚きを込めて描き出しています。

 そうした実朝が、「平家ハ、アカルイ。」と源氏の総大将の立場にありながら仇敵の一族を誉め、続いて一人ごちたのが「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」というセリフなのですね。
 平家琵琶の壇ノ浦合戦のくだりを聞きながら、平知盛が女中衆に敗色濃厚な戦局を尻目に「只今珍らしき吾妻男をこそ、御覧ぜられ候はんずらめ」と笑って見せた。その場面で出てきたのがこのセリフだということは、この作品が発表されたのが戦時中の1943年だということを考え合わせると、大いに注目に値します。滅び行きつつある国の中での「文学」の立場。ただ無力なだけでなく、ときに傀儡として利用さえされるにもかかわらず、争う意思さえも持たない「文学」というもの。

 北条家についての「私」の見方も興味深いものです。北条政子も義時も「竹を割つたやうなさつぱりした御気性」で決して悪い人たちではなかったが、ただあえて言えば「下品」だったと。

 含みがあるというのか、さまざまな読み方のできる大変面白い小説だと思うのですが、「キャプテンハーロック」という物語が、その最終回でこれを持ち出すのはどうだったんだろうかと。これをやりたかったのは、原作者松本零士なのか、アニメーションを監督したりんたろうだったのか。
 考えれば考えるほど不思議です。



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キャプテンハーロックの最終回 

[2006/08/02] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

「明るさは滅びの姿であらうか。
 人も家も、暗いうちはまだ 滅亡せぬ。」
         (太宰治「右大臣実朝」)

 で、いいんでしたっけ?(汗

 「ハーロックの青いアルカディア号も緑の方に比べるとマイナーなんだろうなぁ。」というわんこさんのコメントに刺激されて、そんな馬鹿なと画像検索をかけてみましたら、びっくりですねぇ、劇場版「銀河鉄道999」で出てきた緑版のアルカディア号ばかり!
 そりゃあ、このアルカディア号のデザインを見たときは、「すげぇ、カッコイイ!」と大興奮した覚えが確かにあります。けどね、これはスリーナインに出てきたアルカディア号だから。「キャプテンハーロック」が主役のアニメは、あくまでテレビ放映されたあの番組なんであって。
 青版のアルカディア号は、あれはあれでカッコよかったではないかと。なかったことにしてしまうというのはどうなのよと。(といいつつ、私の部屋にある食玩も緑版だけど・・・。)
 ちょっとショックを受けました。

 んで、頭の中が「ハーロック」になった瞬間に、ふと思い出したのが、最終回のラストで出てきた冒頭の引用。
 まだ子どもだった私でしたが、ちょっとばたばたして残念なアニメだったなと思いながら見ていた「キャプテンハーロック」のラストに、こういう言葉が出てきて、「意味が全然分からない!」と思いながら、ちょっとぞくぞくしてカッコイイ文章だな、と思った覚えがありました。
 で、私の記憶の奥底に引っかかっているものは、きっと誰かの心の奥底にも残っているに違いないと、調べてみたのですが・・・。

明るさは滅びのしるし、とは、太宰治の「右大臣実朝」からの孫引きだ。
TVアニメの最終回にそんなテロップを流すような監督だったのさ。
思わず口走りたくなるってもんでな。それだけだよ。
トキワ亭かんこつ「メトロポリス往還記」

 こちらぐらいしか、Hitしませんでした。(ぐぐり方が悪いのかなぁ)
 ここで「監督」と言われているのはりんたろう監督のことです。(富野さんの最初の上司だったってほんとですか?)
 「これからの文章は、80年代の日本アニメ事情、漫画事情について多少知識が無いと読みこなせないかもしれない」という書き出しのこの文章は、たしかにけっこうマニアック(笑)。

 宇宙戦艦ヤマトという、テレビ漫画を「アニメ」に押し上げた突破口を開いた作品の誕生に立ち会い、一躍時代の寵児となった松本零士に、東映動画もまた群がり、その東映動画という「会社」の使うギルドの中には幸運にも名棟梁・小松原一男がいて、これまた名工・椋尾篁もいて、そんな恵まれた環境でりんたろうは作品を作ることが出来たのだ。
 この幸運が松本零士に名作「宇宙海賊キャプテンハーロック」と「銀河鉄道999(劇場版)」「さよなら銀河鉄道999」を与える。与える、と私は書く。(たなぼた、と書くのはやりすぎ。)

 ヤマト以前から「戦場まんがシリーズ」のファンだった幼少時の私は、告白するとかなりの松本零士好きでした。ぬるいアニメファンでしたからねぇ。りんたろうという名前を意識したのはだいぶ後になってから。

 胸の中に輝く監督が「りんたろう」ならば、ヤマトガンダム世代だとは、自分からは名乗れない。私には名乗れない。それが長浜忠夫氏だという人もまた、同じく複雑な気持ちになるのではないかと予想する。
 松本零士ファンだと名乗ることもまた、私には困難である。
 ハーロックのファンだったという告白も困難なのである。

 その後、自分がこれぞと認めた物語が実は「松本零士の映画」というわけではなかったことに気づいた時、私は14歳だった。
 りんたろうの手を離れた後の、キャラクター達の変貌はおぞましいほどであった。
 りんたろうの映画はどこへ行ったのだろう、と慌てた私はその時、17歳になっていた。
 それっぽちのことだけれども、忸怩たるものがある、のである。

 この気持ち、よく分かります。富野さんなんかが注目され始めて、「なんか、アニメってほんとは松本零士さん(漫画家)が作ってるわけじゃないらしい」と知った後の、なんだかバツの悪い思いったら(笑)。
 すみません。若い読者さんにはまったく分からないだろう話をしてしまいました。ぬるいファンだった私には、語るようなうんちくもないんですけど。むやみやたらに懐かしかったので。

 しかし、あのラストです。アレは一体なんだったんだろう?

 大人になっちまった今だからこそ、余計に気になりますね。
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