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私個人にとっての「普遍的」価値 

[2007/09/08] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 のっけの表題から、言葉の意味に厳密な方が読んだらひっくり返りそうな、矛盾そのものの言葉を使っちゃいましたよ。w

→ 「普遍的影響力」と「普遍的価値」

 この記事に、またたくさん勉強になるコメントを寄せていただいて、本当にありがとうございます。・・・なるほど、身に付かない難しげな言葉をうっかり出してしまうと、予期せず“哲学・思想的な話”になっていってしまいますね。身近な疑問が哲学的なものに繋がっていくというのは、自分の勉強の機会としては嬉しいんですが、ただ、このブログの常連の皆さんでないと、ここの管理人たる私が、こうも“学のない”人間だとはご存じないので、ぱっと来てはじめて読まれた人にはいろんな誤解を与える可能性はありますね。気をつけます、ハイ。

 私の哲学・思想の知識などというのは、高校生のとき(何十年前だよ、ヲイ!)の「倫理社会」の教科書からそれほど進んではいません。ローティとか、アレントとか、このブログを書いている中で、皆さんにご教示いただいて、懸命に読んでおりますが、全然読み進められないし。ほんとに基礎学力がないというのは情けないことです。

 私が「普遍的影響力」とか粗雑な言葉で言ってしまったものは、世の多くの人に知れ渡って人気を博し、ブームを起こす力のような、そんな程度のイメージだったと思います。(前の記事での辞書の定義で言えば、「広く行き渡ること」という、漠然とした定義のほうですね。)
 「普遍性」と言ったときに、哲学・思想用語として捉える人よりも、そういう“人気の出る要素”のように聞いてしまう人も案外いると思うのです(英語で言えば、ユニヴァーサルではなくポピュラーに近い?)。私の場合は、そのへんの区別が全然できずに混同しながら使っていた状態でした。
 哲学・思想の用語で言えば、これは誤用なのですね。・・・“価値”というのは、むしろ相対的なものだと。そこを絶対的なものの如く思いなそうとすると、それは“イデア”について話していることになる、と。あるいは“アプリオリ”とか。どうやら、そういう話なのですね。私には難しいですけど、とても面白いです。

 それこそ遠い昔に「倫理社会」のお勉強をしていたときに、“イデア論”で語られる真・善・美という概念は、けっこう気に入っていました。でも、私が個人的に、≪これには“普遍的な価値”があるんじゃないか≫などと思うものを、いくらなんでも“イデア”とまで語れるかと言われれば、そりゃかなり無理ですよねぇ。(笑)

 世界の真理についてのような話になると、「普遍」というのはいかにも難しいのですが、私程度の人間にも知覚し得る範囲のことに限定して言うと、 「時代の中で人間は変わっていくものだけど、いつの世にも変わることなく人間が抱えているもの(良い意味でも悪い意味でも)ってことになるんでしょうかねぇ」と書いた、その程度のことは許されないものだろうか、と思っています。

→ ukparaの思索メモ (つねに未完成) - うのもえ 第4話 「三つの決断主義」

 けれど、このあたりを読ませていただいて、私の思い込みは「普遍的価値」などと言うよりも、むしろ「無根拠な選択」なのかなぁと感じました。

決断主義2=「諸個人が、自らの無根拠な行為を、その政治性を自覚化する(社会参加する=自分自身だけでなく全人類をもアンガジェ〔拘束〕する)ことで、正当化すること」 in サルトル『実存主義はヒューマニズムである』(1946年)

 個人的にいいと思う作品を、ただ自分で楽しんでみているだけではなくて、こうしてブログに感想を書いたりするっていうのも、ずいぶん迂遠ですが、世の中に関わろうとしているってことになるんでしょうね。

決断主義2(サルトル実存主義)は、ポストモダン時代では不可避な生き方だから、当然の(歴史相対的な)前提。よって、肯定される。逆にこういった自覚がない人は、自分の発言の政治性を自覚できないので、危険。

 なるほどなぁ。うっかり「普遍性」などという言葉を持ち出すと、私は“普遍主義者”になっちゃうんだなぁ。
 ネット上でのいろんな話を読んでも、抽象的で実感がわきにくいこともしばしばあるんですが、こんなふうに例えば“ブログを書く”みたいな身近な現実に接続してくると、現実味を帯びてきて、私のような無学な人でもある程度、具体的にイメージを持って考えることができます。
 今回もまた、皆さんのおかげでいろいろ勉強させていただけました。今後ともどうかよろしくお願いいたします。

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世代というのも人間の業ですか 

[2006/12/14] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 さきごろ富野監督の思索の展開に思うことを書いたところですが、この話がそのまま先日来コメントいただいている内容にも繋がっているような気がするので、少し話を続けてみようと思います。
 個人とは不特定多数の個人ではなく英雄のような存在を指し、「ロマン主義とは英雄主義といいかえてもよいのではないですか」というnishinomaruさんのコメントのおかげで、以前に気になって取り上げたとくもとさんのコメント――「ロマン主義(個人の決断が歴史をも動かす)はニュータイプに替わりえる強力な私と我々を結ぶ思考です」という意見についての論点が、私にも少し分かった気がしました。
 英雄主義というのは、エリート論ではないかと思います。…と言ってしまうと、(私もどっぷりとその中に浸かって育った)戦後民主主義的には語弊があるようですが、きちんと検討すべき課題だと思います。と言うよりも、むしろエリート論というのはガンダムの世界では、ほぼそのままニュータイプ論だと思われますが、そこはどうでしょうか。「シャアは英雄になり損ねたキャラ」とは、そのまま“ニュータイプのなり損ない”と重ならないでしょうか。
 つまりニュータイプ(=英雄=エリート)になったからといって、「生命を持たない意識体としての存在」にでもならなけりゃ、生身のままでは世界なんか救えやしないと富野監督がやってきたこと(→関連記事)が、能力を身に着けて人々を導こうとする英雄になろうとする向上心を「さんざん愚弄してきた」のではないかという批判なのでしょうか。
 これは教養とかビルドゥングスロマンについての話でもあるのかもしれないですね。以前に「向上心」考(生きて戸惑い動揺する教養) という記事を書いてみたことがあります。「社会全体が頭打ちな現況の中で、人を差し置いても自分(だけ)は向上したい、という願いはしばしば壁に突き当たります」と私は記しましたが、ここに書いたことを裏返すと、戸惑い動揺したところで終わったのでは、微温的な現状肯定という批判をかわすことが出来ない、いかに未来が見えなくとも「絶望もしちゃいない!!」(アムロ)と言わなきゃならないということでしょうか。
 こうしたアムロの物語は立派な英雄譚ではなかったかと思いながら、では例えば「エヴァが反戦映画である、ということを見落とす観客の責任の方が圧倒的に重いと思います」と断言されたnishinomaruさんのように、確信を持って言い切れるかというと自信を持ちきれないわけです。

いまや特撮やアニメは世代にかかわらずDVD化されネット配信されるボーダレスな時代である。したがって世代論だけでは論じられないと思うのだ。
いつのころから新発売: ボクのオタク論


 私は時代の中での変遷を見たいと思ったわけですが、上の記事を読んで私が思ったのは、そうしたものに捉われておろおろするよりも、そんなものはいっそ無視して、間断なく現在の視座から斬りなおし、その都度評価は改めていかねばならないというnishinomaruさんの徹底した意思でした。
 それは正しい(そうあるべき)考え方だと思います。現在のオタクの状況から逆算すると、オタクの定義の変化についての分析も説得力があります。
 それでもなお、たとえば物語を「他人の不幸は蜜の味」という暗い楽しみとして捉えるような、今日的な感覚というものには、私はどうしても馴染めそうもない気がするんです。
 困ったなぁ。世代というのも人間の業とかエゴとか、そういう乗り越えがたいものの一つだと自覚すべきなんでしょうかね。


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「向上心」考(生きて戸惑い動揺する教養) 

[2006/05/31] | 新訳Ζ | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 「教養」という、似合わないことをこの間しばらく考えてきました。教科書は、高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)。もともとは、「Ζガンダムはビルドゥングスロマン(教養物語、成長物語)としてどうなの」という話から、思えば二ヶ月以上以上もかかってここまで来たんですが。(笑)
 第1章の標題は「男の子、いかに生くべきか」でした。
 自分自身を作り上げるのは、ほかならぬ自分自身だ。・・・正直「なるほど」が半分で、「へぇ、教養って本当はそういう意味なんだ」が半分だったわけですが。第4章まできて、その残り半分の正体に気づかされました。最終章は、女性にとっての教養の話(ちなみに著者も女性)なのですが、これがまぁ、格別に「いやったらしい」話柄。(笑)
 第1章で語った教養の定義は「男子たるもの」の生き方の話だったところがミソでありまして、これに対し、久しく女性にとっての「教養」という言葉は、「お育ちの良さを表す目印」だったという、なかなか今どき口にするのがはばかられるような歴史的経緯が記されております。私みたいに学のない人間は、実は「教養」と言われると、こっちのイメージのほうがパッと浮かんでしまうという・・・。

 アイデアは熱いうちに打たないとしぼんでしまうと言いますか、『Ζガンダム』の男性原理VS女性原理の話を、この話の延長で読んでいくとどうなるんだろうか、ってのが私の関心だったのですが、ちょっとネタを寝かしすぎちゃって、うまく言葉にならないんですけど。

 自己形成を目指したいというメンタリティの根本にあるのは、「心貧しく何かを求め続ける」気持ち、すなわち、今ある自分に満足できない焦燥感なのですね。(これは格別、男性だけの特権ではないのは言うまでもない。)
 ただ、それは貧しさに立脚しているという事実も直視しなければならない。つまり教養主義というのは、ブルジョア的視点からは「身の程知らずの上昇志向の落ち着きのなさ」だし、一方、庶民的存在には、「自分たちを置き去りにする裏切り者のエゴイズム」なのだという。
 いわば、「教養」を求める向上心というのは、「成り上がり根性」と背中合わせだという指摘なのですが、それはそのまま「近代日本そのものの姿」(その根性の消滅が日いずる国の没落) でもあったと。

 世の中全体が右肩上がりのときは、それでもよかったのですよ、たぶん。しかし、今はそうではない。
 そこで自身も女性である著者は、今日の教養(いかに生くべきか)を考えるべき最前線に立っているのは女性であるという指摘で筆をおいています。(・・・んん?結論は? 笑)

もし、教養や教養主義にたいする筆者の態度がいま一つ明確でない、批判なのか擁護なのかよく分からない、と感じられるとしたら、それは、人間をその複雑さのままに示してみたいという本書の願いから来ている。教養は、もちろん、この人間の複雑さと切り離しては考えられない。


 これはあとがきの中にある言葉です。私はこの態度は富野アニメの人間観ととても近いものだと感じました。(女の時代が来る、というシロッコの説を別にしても。 笑)
 筆者は続けて、おそらくこうした態度の例として、大西巨人『神聖喜劇』の主人公が「いろいろたくさん私にわからぬことがある」と正直に混乱を告白することについて記しています。

 人間描写の細部のリアリティは、われわれが日々体験する、厳粛と言っていいのか滑稽と言っていいのか、笑っていいのか泣くべきなのか分からない、まさにグロテスクな状況を映しだす。
 そして、そのように細部が積み重ねられるほど、人間をよく掴めなくなるのだ。これは、主人公じたいの感覚である。


 この部分は、私たちにはまるで、『Ζガンダム』の批評のようには聞こえませんか?(笑)
 「確固とした理念としてではなく、生きて戸惑い動揺している教養」という言葉に、私はとても感動をしました。

 「自分自身をどう見るか」が男性原理の教養だったとすれば、「他者にどう見られたいか」「他者をどう見るか」はやや女性原理的(と思われてきた)な教養論になりがちなわけですが、社会全体が頭打ちな現況の中で、人を差し置いても自分(だけ)は向上したい、という願いはしばしば壁に突き当たります。(下手をすれば、あの宗教の人々のようにさえもなりかねない。)
 ・・・私の下手な言葉でまとめてしまうのは、どうなのかなとも思いますが、それはつまり、人と人との関係の中で、戸惑いながら、動揺しながら、しかし互いの向上を飽かずたゆまず希求し続けるというようなことなのかな、というような感想を私は持ちました。
 つまり『新訳Ζ』というのは、そういう今日的なビルドゥングのあり方のひとつの真摯な模索だったのではないのか、と。(そして、それは断じて微温的な「現状肯定」ではない!)
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