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争いごとは嫌いなのですが 

[2006/04/09] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(5) | TOP ▲

なんかサブカルとおたくは仲が悪いという話をよく聞きます。本気で違いが分かりません。ある要素を取り上げて「これはサブカル」「これはおたく」と判断することはまあできますけど、そこにどんな分類基準があるのか身体的に理解することができません。
(魔王14歳の幸福な電波 え? 「サブカル」って「おたく」をカタカナで書いたものじゃないんですか?


 サブカルとおたくは仲が悪いのかどうかもよく知りませんが。(笑)
 それはけっこう違うだろうと思いながら、こう聞かれると、どう違うんだか上手に言えない自分がいるな、と気付きます。
 「まあロックだってメタルとパンクがいがみ合ってるし」で納得しちゃうのか? 私はますます分からなくなりそう。
 でも「どうしていがみ合う必要があるのか」と言われると、ちょっと気になりますね。「ファーストガンダムと平成ガンダムとか」ですか。

 もちろんその大多数は両方に関心があるか不干渉を保っていると思いますけど、なぜか喧嘩を始めてしまう人たちがやっぱり一定数いるわけで、しかもそういう争いって傍から見てると「どっちも似たようなもんじゃん」で終わってしまうものなのです。


 「当人達にとってはぜんぜん違うことでしょうし、そのこだわりは大事にして欲しいと思いますよ。それが不和のタネにさえならなければ。」って言うけれど、そりゃ争いはイヤなんだが、むしろ傍から「どっちも似たようなもんじゃん」みたいに言われたりするから、しなくてもいい不毛な争いが発生するなんてことはよくある話のような。
 …って、なんか本当にサブカルとおたくの話だったのか、これって? あ、そうか、区別が分からないって話だったんだから、とりあえずそれでもいいのか。

 おたくは特定の行動をする人種を指す言葉、サブカルは特定の嗜好を指す言葉だと認識してましたが、正直よく分かりません。まあ、仮想敵を作りたがる人ってのはどこにでもいますよね。ネットだと相手が見えないから、なおさら。
SSMGの人の日記


 この解釈で少し納得。行動と嗜好の“対象”(例えばアニメ)が完全に同一ではないというところがミソですかね。ただ傍から見れば同一以外の何ものにも見えない(アニメはアニメ、どれでも一緒)というのが現実。で、どう相手を排除しようとしてみても、それは不可能なのだから、仮想敵を作りたがるってのは、やっぱり愚行なんでしょうね。
 はてなブックマークを見ると、結構いろんな人が関心を持って、いろんなコメントを述べていて、「最先端の人は作ったり調べたりに忙しくて喧嘩してられんでしょ。勝手に敵意を持たれる事はあっても。もっと前向こうぜー。」みたいな前向きの意見もあれば、「『文化』なんてそんなもんでしょ?」ってな冷めた見方もあり、 「いがみ合ってた方が文化が活性化するから、不毛でもどんどんいがみ合え」なんて意見もまんざら間違いではないようにも思う。
 
 何かを支持して「よかった」という記事を書くのは、「つまらなかった」と批判する記事を書くのより、少なくとも自分の言葉で書こうと思ったら大変なことだという気がしています。
 でもこういう記事こういう記事を読ませてもらったりすると、批判ってのもちゃんと考えなきゃ駄目なんだろうなぁって。

 「勝ち組負け組」の話は、もともとは多数派少数派の話からはじめたのに、いつの間にか経済的勝者の話にしてしまったのは私でした。すみません。

「経済的勝利を、自分にとっての「勝利」だとしてしまった方が、他のやり方よりも「楽」だ」という文脈

なのはzsphereさんのご指摘のとおりで、なぜそれが楽かというと、それが「勝ち組」についての認識の多数派だからなのでしょうね。(経済的勝者はむしろ実数では少数派のはずなのに、どうしてそうなるんでしょうかね~。)
 いや、「経済的な勝ち負けもバカにならない」ってのは私も非常に身につまされる話ですが、何かにつけて勝ちにこだわる人が世の中には本当に多い。
 私は、よく周りの人から“敗北主義者”って言われるんですよねー…。

orz

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今日は珍しいぐらい、ただの日記 

[2006/04/09] | ブログ日記 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 北陸路にも遅い桜前線がようやく到達。
 今日は愛車の冬タイヤを夏用に交換する予定だったのですが、ちょっと運営をお手伝いしているボランティア(NPOっていうのかな?)団体のホームページが調子悪いと言うので、貧しいHTMLとCSSの知識をフル動員して一生懸命メンテナンス中であります。
 ウェブのバリアフリーというのは本当に難しいですね。基本的には「正しい」HTMLで書いてあれば、どんなブラウザでも「正しく」表示されるはずなんですが、世の中で出回っているホームページやブログで、「正しい」HTMLで書いてあるところなんて、めったにお目にかかることがない。
 このブログでも、間違ってる部分があることは分かっているんですが、素人のユーザーレベルで直せるものじゃなさそうなので、あきらめています。普通の言葉遣いとおんなじで、少しぐらい間違ってても、ほとんどの相手には意味を汲み取ってもらえるんですが、一部の相手には、ささいな言い間違いで全然意味が通じなくなってしまうことがあるんですよね。
 まぁ、それもこれも勉強だ!(笑)

 「勝ち組負け組」の話には、「競争社会」について両極端なコメントをいただきまして、そういうものなのかなぁと。
 個人的に私なんかは、スポーツでさえ「結果が全て」ってのは大嫌いな性分です。そういう指導者ばかりでなければ、もう少しスポーツ好きな青春を過ごすこともできただろうに、などと思ってみたり。

 受験生時代にも、なぜ競争させられなきゃならないんだろうかと、悩まないでもいいことでくよくよして、ずいぶん無駄足も踏みました。その頃にたまたま目にしたキャッチコピーで今でも好きなフレーズがあります。
“Try Your Best!”
 こんなもの、とても月並みな励ましなんだろうなと思いながら、ついついだらけてしまう自分に負けないように、自分に言い聞かすには、なかなかいい言葉でした。人と争うのは今でも嫌いです。ただ自分には負けたくない。そう思えば、自分なりに頑張ってベストを尽くしたとさえ思えれば、結果がどうであっても悔いは残らない。
 そう言いながら、振り返って考えてみれば、ベストを尽くせなかった悔いも多々あるのですが、それよりも今、悩むのは、自分はこれから何に向かってベストを尽くしたいと考えているのか、答えが容易に見つからないことのような気がします。それはつまり、人はどうあれ、自分なりの価値基準を持とうと考えてきたはずなのに、それが必ずしもうまくはいっていないということなのでしょう。(それでも人からは、“偏屈もの”“頑固者”とよく言われますがね。 笑)

 あぁ、こんなことをしている間に、陽はドンドンと傾いてゆく。人間とりあえず、やれることをやれるうちにやらなきゃ駄目ですねー。(苦笑)

「勝ち組」「負け組」 

[2006/04/08] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 多数派と少数派という話題に関連して、なかなか考えさせられる文章を読みました。

Iwatamの何でもコラム 「コラム:勝ち組負け組
 「競争社会」とは自明のものなのか。一昔前の「おたく」と、今日の「ニート」の間では、その間の認識に開きがあるようです。

 ニートは競争社会を肯定する。「この世は競争社会じゃない」とは思っていない。競争社会だということを認めていて、負け組で仕方がないとあきらめている。
 おたくは「負け組でもいいんだ」と言うかもしれないが、その本意は「お前が俺のことを負け組だと呼ぶのなら勝手に呼べばいい」ということだ。おたくは自分が負け組だとはちっとも思っていない。むしろ負け組なのは勝ち負けなんぞにこだわっている相手の方だと思っている。つまり、おたくは自分の基準で自分は勝ち組だと思っている。


 ここで言われる「おたく」は、古きよき「おたく」とはそうであったというイメージが語られている印象はあります。著者の方も「一昔前」と言っておられますね。

 勝ち負けが決められるとしたら誰とだろうか。それは、全く同じ物差しを持っている自分に対してだけである。過去の自分に対して現在の自分が自分の基準で「勝ち」ならば、現在の自分は過去の自分に対して勝ったと言える。そして、結局のところ勝ったと言えるのはそれしかないのだ。


 自分が「おたく」かどうかは分かりませんが、「自分のしたい事ができればみな勝ち組」という価値観は分かるような気がします。しかし、ここで言われるほどの誇り高い価値観を保てているか?自信がないですねー。

 例えば「アニメをたくさん見れば勝ち」だと思っているアニメおたくと「DVDの売上を上げれば勝ち」だと思っているビジネスマンは手を組んで両方とも勝つことができる。これが、勝ち組になる一番楽な方法だ。


 この辺は正直、はっきり抵抗感を感じてしまいます。例としては不適切なのではないかと。(たぶん著者の方は、アニメの中に質のよしあしなどがあるとはあまり考えていらっしゃらないのでしょうね。それもやむないことですが。)

 人を評価に入れず、自分しか見ない。人の評価は参考にはするが、最終的には自己評価だけを考える。もし自分で自分の悪いところに気がついたら、そういうことに気がついただけ自分は勝ち組だと思う。そしてそれを直せば自分はもっと勝ち組になれる。


 いいことを言ってるんですよね。
 自分独自の確固とした価値基準を持って、それが世間の価値観では「負け組」とみなされてもよいと言い切るのと、それを持てずして、他者が決めた価値基準だけで自分は「負け組」だとあきらめるのは、確かに違う。

 今では勝ち組とは特にネットや株で儲けた人あるいは企業を指すようになりましたが,本来の「勝ち組」とは日系ブラジル人の中で太平洋戦争が終わっても日本が勝ったと思い込んでいた人達で,「負け組」とは日本が負けたことを知った人達だった
(花崗岩のつぶやき「勝ち組負け組」



 少なくとも、「経済勝者=勝ち組」という言い方を認めてしまった時点で、誰かが自分に都合のいいように決めた価値観に踊らされている可能性は考えてみた方が賢明なのでしょうね。高度成長もとっくに終わり、バブルもはじけて久しいはずなのに、人々はますます「勝ち組」になりたがるというのは、どういう現象なんだか。私たちは誰かに踊らされていたという真実を知っていたのが、そもそもの「負け組」だったという語源は、なかなか味わい深いです。

 今日、「おたく」という言葉の定義は拡大してしまって、むしろ最初の文章でいうところの「ニート」的に、誰かにあてがわれた価値観を、疑うことなく享受している人々の層を指す言葉に変質してきたように思います。
 情報化が進んだことが、価値観の多様性を許容する方向性に向かうよりも、例えば「ニンテンドーDS」がいいらしい、という噂がぱっと広がると猫も杓子もそれを求めて群がってしまうような現象に繋がっていく。あるいは「限定もののガンプラ」を転売目当てで買い求める人たちの存在であったり。
 勝ち負けは、どうも最終的には経済原則のところへ落とし込まれる陥穽から逃れようもないようで、新たな価値観を見出しても見出しても市場原理の渦の中へと呑み込まれていってしまう。

 もちろん、時には自分が嫌だと思うことだってやらなくてはならないこともある。しかしそれは自分がやりたい事をやるためだと思えば苦にはならない。仕事はあくまで手段であって目的ではない。仕事と趣味がマッチするならそれは理想だが。


 たぶん経済的勝者の側に回ることも、手段であって目的ではなかったはずなのだが、今日では勝つことそのものが目的化していて、それ以外の自分なりの趣味(あるいは価値観)を持てない人が多いということなんだろう。人から与えられた価値観に従う趣味などは本来、「趣味」の名に値しないということが見失われている。
 私はたぶん古い人間なので、人のことなどは正直どうでもいいんですが、世の中とはそういうものかとぐらいは理解しておかないと、時々襲ってくる不快な思いに呑み込まれてしまいそうになります。

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「社会の貧しさ」というのは 

[2006/02/07] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

「萌え」や「やおい」をガンダムに求める人たちの存在という現象は、マニュアル化されたひとつのパターンでしか、ものを見ようとしない、という言い方だと違いますかね?
そういう人が間違っているとは現状で断言しかねますが、いろいろな角度から考えてみる面白さを知らないとは思います。0か1かのデジタル現象なのか、勝ち組負け組という価値観しかない競争社会の産物なのか、背景はいろいろ言うことができるのでは。

「芸能」が、お上のお抱えになると形式主義化した「伝統芸能」になってしまうことを考えると、それも一定の価値観のものさしを当てはめようとする行為なのですよね。

情緒、ニュアンス、真の「娯楽」といったこと。多様な味覚(面白さ)が入り混じっているものが、私は本当に「美味い」と思うのですが、激辛・激渋・激甘・・・。流行とは極端ですね。一言で言えば『貧しい』のか?
 ↓
多様な味覚の並存を一概に貧しいとは言えませんね。激辛を愛すものは、激辛の中の微妙な旨みを味わい分けていれば、それはそれで豊かさなのかもしれない。

・旨みも分からずに、
 「辛ければ売れるんだから、辛いほどいいんだろう?」
 という人が増えるのが、作り手側の問題。
・少なくとも、「売れているんだから美味いはずだ」
 と受け止めてしまうのなら、それは受け手側の問題。
 (「行列の出来る店は美味い」の論理)

そんな作り手や受け手が多いことをこそ、「社会の貧しさ」として考えなければならないのではないでしょうか。
その貧しさを絶望的なものだと思うのなら・・・世の中はどうでも、自分だけは自分が美味いと思うものを追求すればよろしい?(社会がどうあれ、関係はない。)→作り手が明確にそうした立場であるならば、受け手も「自分の味覚の趣味に合うかどうか」以上のことを、そこに追求してみても不毛です。

ただ、「絶望的ではない」と信じ、広く社会全体に向けて「表現」している作り手が少数でもまだいるとするならば、彼の言うことには、同じく「絶望しちゃいない!」と言える人たちは耳を傾ける価値はあるのではないでしょうか。


上記長文の引用は、某所での対話の中で、私が長々と書いてしまったものです。あえて編集せずに、引用で引っ張ってきてみました。
末尾で「彼」と私が呼んでいるのは、言うまでもなく富野御大のことを頭に浮かべながら記していたわけですが。

特定の趣味嗜好が一世を風靡することそのものが貧しいのではなく、その趣味の味わいも分からずに追従する作り手・受け手がもし多いのであるならば、それこそが『貧しさ』だと言いたかったつもりです。
留意願いたいのは、この一見当たり前な批判は、例えば「激甘」に対してだけ向けられるものではなく、「激辛」や「激渋」にも等しく当てはめられるべきものだということです。
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