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むかしむかし、「松本零士ブーム」というのがありました 

[2009/11/02] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 某所でPSB1981さんとちょっと面白い対話があったので、ブログに転載しようかなーと思っていたら、思いは同じだったようなので、応答するような感じで私のほうのパートの発言を書いておきます。(すぐに書くつもりがだらだら長くなってタイミングを逸してしまい申し訳ない。)

銀河鉄道999 (劇場版) [DVD]

 PSB1981さんは私よりずっと若いんですけど、
 「子供のころ銀河鉄道999が嫌だったなー」
 「メーテル嫌い、っていうか怖いんだよ。。」
・・・ってつぶやいておられたんで、
 「テレビ版はそうでしたね。あれ、映画版と違って鉄郎が子どもだからそう感じたのかなぁ。」
・・・と合いの手を入れたら、
 「映画版は鉄郎子供じゃないんですか?」
・・・というリアクション。(!)
 劇場版『銀河鉄道999』というのは、(例えば宮崎アニメなんかと同じぐらいのレベルで)わりと誰でも見たことのあるタイトルだと思っていたので、すでに歴史のかなたに去っていっていることにびっくり。(まさに「さらば、少年の日よ。」)

 それで「あの松本零士ブームってのは何だったのか、誰か目の覚めるような解説を書いてくれないかなー」と私がぼやいたところ、PSB1981さんがリンク先の記事のようなことを書いてくださったというような流れです。

明らかに高度消費社会を前提にしなければ成立しえない当時のサブカルの中で描かれる、世の中(高度消費社会)に敗れ去る(ことを選択する)男の美学(スノビズム)と、それを消費する(プレ)オタクみたいな。

>消費社会への敗北
この辺りの感覚は、村上春樹の初期作品を読むと(頭で)理解できます。

ねじれ、というのは、そんな村上作品が、80年代においてスタイリッシュなオシャレ小説(プチインテリや都会人の自意識の受け皿)として消費されていったという点ですね。

世の中に取り残され、敗北してゆくジョーや松本マンガの中の男(の美学)が、女子供のメディアであるマンガやアニメに乗っかって、高度消費社会到来後にブームを巻き起こした、というのも同じだと思います。

 もう少し前段のところでこういうお話もあって、それで宇野常寛さんなら「安全に痛い」と表現するだろうと言われたのに、ひどく納得が行ってしまって。とぼけた感想なんですが、「エヴァンゲリオン的な読み方」ですね、と思わず言っちゃいました。
 これは文句でもなんでもなくて、長い間、「あれは一体なんだったんだろう?」と思ってきたことが、こういう読み方で「なるほど」と思えるのだから、なるほどエヴァンゲリオンはアニメの批評を進歩させたんでしょうねー。

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情動とロジック 作家性と公共性 

[2009/07/19] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 長文のコメントをいくつもいただきましたので、本文でコメレスさせていただきます。TOMMYさんが「私の履歴書」富野アニメ体験プロフィール【前編】【後編】というような興味深い記事を書いておられたんで、私もそんなのを一回まとめてみたいんですが、こんな感じでしょっちゅう部分部分の富野アニメ体験を振り返っちゃってるんで、まとめるというと難しいんですよねー。w

ニコ子さん

>だからダンバインやイデオン、皆殺しではないけどゼータなど、「ああ分かる」って感じでした。 嫌悪感どころか共感、ですね。ところが、エヴァにはどうにも共感どころか観ることさえ拒否してしまう自分がいます。

>何でそうなのか、単に捕食シーンや人殺しシーンがイヤなのか分からないんですが、受け入れることは出来なかったんです。
それは多分昔の私と意識が変わったのでしょうね。

 このブログではよく、私よりずっと若い皆さんとお話させていただいたりするんですが、ティーンエージャーのときに観た作品には格別なものがあるというのは、否定できないですね。私の場合はイデオン発動篇に「共感」といいますか、魂を奪われた体験だけは、その後(アニメに関心を失っていた期間を含めて)繰り返し頭の中で反芻されてきた、無比のものです。

 思い出してみれば、その後太宰治とか、遠藤周作とか、青年期らしい青臭さでかぶれた作家というのはいろいろいたんですが、そういう感じ方の根っこになる部分はイデオンで育まれていた(笑)という事実は自分で否定しようもなく、厳然としてあります。

機動戦士ガンダムの時代 1981・2・22 アニメ新世紀宣言

 ただあれが当時の「アニメ新世紀宣言」とか「イデオン祭り」みたいなイベント的な時代の熱狂を伴っていたからそうなのかというと、多少はそうなのかもしれないんですけど、私はそういう第一世代オタク的なものは少し覚めた目で見ていたような記憶もあり、作品の、フィルムだけの力だけで圧倒的だったという思いがあります。

 自分の、そういう体験を踏まえて、エヴァンゲリオンに熱狂する世代の人たちの感性のあり方も理解するように努めてはいるんですが、越えがたい壁があるということも事実です。
 あるいは庵野監督は、当時むしろ距離を置こうとしていた第一世代オタク的なもの、そのものだったりしますから、そうなっているのかもしれませんね。

>他の作品ならOKでしょうが、トミノ作品はその背景を見、トミノの言葉を知らなければ理解するのは難しいと思うのです。

 んー・・・そこはどうでしょうか。昔はインターネットとかなかったし、上記のような次第で私はアニメ誌とかあまり読まない青少年でしたから、富野御大の言葉に接するようになったのは、正直な話、ここ最近のことなのです。
 自分だけの感動としては、作品さえあればよかったような感覚が私にはある(富野小説さえ遠ざけていましたから・・・)んですが、こうやってブログなんかを書くようになって、その感想を他の人と話し合うときに、どうしても微妙な差異があって、じゃあ富野監督本人は何て言ってたんだろうか・・・というような興味の持ち方のような気がしています。個人的には。

 私はアムロ・レイと同い年なので(苦笑)、今の私の歳ぐらいの時に監督は『ZZ』とか『オーラバトラー戦記』だったんだなー(参照:富野年譜)とたまに思ったりします。最近のお言葉は、聞いていてためになることもよくおっしゃっていますが、昔の発言なんかでは、けっこう読んでいても気恥ずかしかったり、アイタタタと感じるものもよくあって。
 ただ、そういうのを含めて(作品だけでなく)あの方の存在自体にちょっと感動するのは、いい大人になってしまって以降でも、真摯に生きていれば人間っていうのは成長できるんだなーと勇気付けられる好例というのが、実はあったりします。

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世の中変わっていくから、変わらない本質についてポジショントークしよう! 

[2009/05/29] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 グダちんさんが世代語りをしているのを読んで、ふっと気が付いたら自分もいつの間にか、アムロ・レイって言うよりもテム・レイのほうに近い年齢になっちゃってるんだよなぁ(笑)とか、つくづく思っちゃったので、書きかけで持て余してる記事がいっぱいあるんだけど、すっ飛ばして中年オッサンのポジショントークをしてみる。w

 「ポジショントーク」って自分の立場をはっきりさせて言うって意味と、自分に有利なように言うってニュアンスと両方あるらしい。(ポジショントークとは - はてなキーワード

昔は良かったというのは結局は年長者の自我を慰撫するポジショントークにすぎないのだろう。

 これは、ほぼ正しいと思います。だけど、この手の「最近の若いもんは」話への反発というのも、若者の立場からのポジショントークだよね。っていうか、私が胸を張って若者ですと言えた頃にも、当然のようにこんな感じの世代間の断絶みたいな話はありふれてて、そういう意味では延々とループしてる話だよね・・・って言い出しちゃったら、そこで終わっちゃうから、もう少し続けてみます。

しかし、世代論になると互いに想像で話すから齟齬が在りますね。

 まあ結局そこだよねー。「想像で話す」しかないってこと。

 そこで何で「想像で話す」しかなくなっちゃったかって言うと、世の中の変わってく勢いが凄いから、オッサンの若いときの経験からは、今の若者の置かれてる環境がかけ離れちゃってる部分があまりに多いんで、想像力が及ばないことになっちゃっているんだろうと。
 逆に、今の若者だっていつかは歳をとるわけなんだけど、今のオッサンたちの置かれている立場そのままの姿に自分たちの将来像を思い描くことが、ナンセンスにしか見えないんだろうというのもあります。こう世の中が変わっていくんじゃねぇ、そうなるのも仕方ないでしょうね。

 今の老人世代が年金もらってるみたいに、自分たちが歳をとったときに年金もらえるかって言ったらたぶん無理だよね、とか。まったくそのとおり。
 だけどさぁ。中学生とか高校生ぐらいからケータイ与えてもらってたり、まだ学生さんのはずなのに凄い高価なアニメのDVDボックス買っちゃっていたり、そんなような豊かな子ども時代は、私がティーンエージャーだったときには絶対に考えられなかったですよ・・・みたいな裏返しのこともあるので、そのへんは一概には言えない気もするんですよ。

 何世代ぐらい前のことになるのか、よく分かんないけど、人々の多くが生まれた家でそのまま育っていって、ほとんどの場合、親の仕事をそのまま受け継いで、そこで再び人の親になって子育てをして、そして生まれたその土地で死んでいくのが当たり前っていう、そういうループを繰り返していた時代であれば、若者の気持ちを年長者は(自分の経験から)理解できたし、若者は年長者の姿に自分の将来像を重ねて見ることができたんだろうと思います。

 「昔は良かった」っていうんなら、そういう時代にまでさかのぼって語りたいところだけど、残念ながらそんな記憶を持っている世代はもうほとんど残ってないんじゃないでしょうか。だいたい、それこそ「時代が違うんだよ!」で一蹴されてしまうのがオチ。

 だから時代は変わっちゃったんだよ(そしてこれからも変わり続けていくだろう)っていうのをお互いに直視するっていうのは、これは世代間で語り合う場合の最低限のお約束なんでしょう。その上でポジショントークしたいもんです。・・・あれ、でもそれだと何も共通の基盤がないから、よっぽど工夫しないと不毛な話にしかならないですね?うーん・・・。

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夏の終わりに(「ある種の鈍感さと横柄さ」について) 

[2008/08/30] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 久しぶりの休日で、惰眠をむさぼりました。たしかに明け方になってようやく寝たのは悪かったけど、目覚めたら夕方っていうのは、さすがに呆然・・・。(笑)
 まあ実際、疲れていたんでしょう。

 8月ももう終わりなんですけど、バケツをひっくり返したような豪雨が降ったりしたせいもあって、今年は涼しくなるのが早いような気がします。
 夏の終わりっていうのは、何かいつも焦燥感があるというか。
 学生時代みたいに、無駄に長い夏休みがあるわけじゃなし。今さら夏だからといって、胸がときめくような(笑)、素敵な出来事なんかが起こるわけもないんですけどね。

 自分のペースからすれば暴飲暴食というか、ふだんはわりと一つ一つ咀嚼する意味で、だらだらと感想をメモしながら本を読んだり、アニメを見たりしているんですけど、このところはそのあたりを省略して「次!」「次!」と何かを求めてみていたような気がします。ちょっとした飢餓状態でしょう。いい年をして、そんなことをしてみたって、頭と身体にガタが来はじめてるんだから・・・。

 毎度、耳が痛いんですが(苦笑)、ためになりますねぇ。「ある種の鈍感さと横柄さ」は必要かもしれない。ただし、ノスタルジーに浸るためよりも、もっと建設的に、現代を生きるためのツールとすべきものなんでしょう。(私の感じ方だと、例えばある世代の方々が『エヴァンゲリオン』を前提抜きで、もの凄く重要なものとして語るのも、「ある種の鈍感さと横柄さ」ではないかと思うことがあります。でも、それはたぶん、いいことなのでしょう。)

 個人的な話。先日、たまたま高校時代の先輩にお目にかかりまして、昔話なんかもしながらつくづく思ったのは、「あの頃、何やってたんだ、俺?」という事実でありました。若い頃に体験しておくべき失敗と挫折を、まあ一通りは経験したのだったかもしれません。“自分より優秀なやつが世の中にはいっぱいいるんだ”という当たり前の事実に気がつくことだとか、もっと月並みに“失恋”だとか(笑)。
 そういうのを一通り経験するのは、誰もが通ってくる道だと思うんですけど、私がダメだったなぁと思うのは、一回の挫折でとことん懲りちゃって、それをきちんと直視し、克服してこなかったってことでした。

prisoner022 <恋愛> 挑戦しただけましでは?中学生ぐらいで体験しておくべきことを30過ぎてやるとなるとつらいな、お互い。まあ、そうやって何回も傷つくべきものだろうから、失敗から少しずつ学べればいいですね。

 これは話としてはつまらん話なんですが、タイトルのせいで注目されたんだと思います。コメントは、自戒も込めて本当にそう思ったので、「そう馬鹿にしなさんさ」という気持ちが少しあります。
 蛮勇を奮って告白する側も、それをふる側も、こういうのは「はしか」みたいなもんで、慎重に発症を拒否するよりは、早いとこ免疫を作っておかないと。
 この匿名ダイアリーの筆者は不本意だったかもしれないけど、「純情な○○青年の想いをすげなく断った身の程知らず」というポジションをあえて引き受けた結果になっています。それができたのは「ある種の鈍感さと横柄さ」のおかげでしょう。
 ただ、ふった側もそれでよかったけど、ふられた側もがんばって挑戦したじゃない? ちょっとは懲りたほうがいいけど(笑)、あまり懲りすぎて事実から目を背けちゃ、かえってよくないですよね。やり方はまずかったと思うけど、またがんばって挑戦したらいいと思います。(今度はもう少しうまくやろう。)

 しかし中学生ぐらいの時には、たかが「はしか」なんですけど、頭も身体もだんだんガタが来はじめてくると、これはなかなかしんどい。しんどいんだけど、あまりにいろんな立場をおもんばかってしまうと行き着くところは思考停止なので、「ある種の鈍感さと横柄さ」を指摘されるぐらいにふるまうほうが、むしろ積極的なのかもしれません。

『若者を喰い物にし続ける社会』感想メモ 

[2007/08/30] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 「この国はどうなっていくんでしょうかね」という記事を書いたときに、読まなきゃといっていた本をやっと読み終えました。
 大雑把な感想としては、現状への問題提起としてはまずまずですが、出されている対案が荒っぽくて、悪く言うと週刊誌のネタ記事を読んでいるみたいでした。780円に値するかどうかは、正直、微妙ですね。(笑)

若者を喰い物にし続ける社会 (新書y (175))若者を喰い物にし続ける社会 (新書y (175))
(2007/06)
立木 信

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 この本の著者は私と同世代で、知りませんでしたが、現代の全日本人の平均年齢がこのくらいなんだそうです。そんな視点に関心があったのですが、書き出しから若者の怒りを煽りたてる論調は著者なりのテクニックかと思いきや、怒りに任せて書くスタンスが最後まで続くのには、少しゲンナリしました。
 ただ現代社会の諸問題を考えるための時事ネタ本としては面白いので、「おかしいなぁ」と思うところは自分なりの対案を思い浮かべながら読む分には、悪くないかもしれません。
 私は社会問題にはあまり明るくないので、「おかしいなぁ」ぐらいのことしか分かりません。個人ブログでさえも、あんまりいい加減なことを書いちゃいかんだろうと思いますから、個々には揚げ足取りはしないでおこうかと思いますが、この本は書籍のわりには、乱暴で危なっかしい対案が多い気がしました。

 それもこれも“若者を煽る”ことを主旨とした内容ゆえだと思うのですが、であれば、こういう内容はむしろネット上で書かれたほうが、活字離れの著しい若者にも読んでもらえるし、対案についても問題点が指摘されて議論が生まれ、より良い形での若者世代の意見集約ができる気がするんですよね。

 ややさみだれ式ですが、個々の問題提起はいいと思うんですよ。少子高齢化とか、日本の政府債務の大きさとか、その存在自体は分かりきっている問題が多いんですが、現在年金を貰っている世代、団塊世代、現役世代、将来を担う世代というような、世代意識から斬っているところは確かに面白いです。

 高齢者はゆとりの老後を謳歌している癖に、次世代に借金ばかり残してけしからん、年金なんてカットしてその分を若者に回せ!というのが主要な論調ですが、これを読むうちに、検討に検討を重ねて最後にはそういう必要が生じるのかもしれない、と私も思いましたが、一足飛びにそこへ持っていっちゃうのは無理がありますよね。年金は、税金の使途などとは性質が違うはずだと私は思っているんですが、違うんでしょうか。そしてこれをやったときに年金制度は保てるのかどうか、自分たちの老後には、年金などなくてもいいのかどうか、も考えなくてはならないような気がします。

 それでも、年金制度を破壊しないまでも、高齢者には何らかの“痛み”をお願いして、将来を担う子どもたちを産み育てるべき若者世代を守っていかないと、この国の将来は危ういという危機意識には同意できる気がします。
 それには“小さな政府”にしなければならないというのも分かりますが、福祉を削る前に削るところはありますよね。いちおう公共事業の問題とかも挙げておられるんですが、そのへんの順序がいい加減なのでは説得力がありません。それに、国防費のような問題も、意図して避けているような気もしました。視点が都会の若者目線に偏っていて、地方の切捨てを当然視しているのも読んでいてがっかりしたところです。

 ですが、“何だってこんなおかしなことになっちゃっているんだ”ということで、若者の政治意識の低さを言っている点だけは、評価できるような気がします。だからこそ、最初は粗雑な議論でも仕方がないから、若者世代のいろいろな意見を集約していって、「これが将来を担う世代のための対案だ」というのを胸を張って提示できるようになればいいんですけどね。そういうためのメディアとして、書籍ではなくインターネットのような場を持っていることこそが、我々以降の世代の数少ないアドバンテージだと思うんですけどね…。

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