みんな「スーパーロボット」が好きなのかもしれない。 

[2008/01/27] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(17) | TOP ▲

 このへんのことを考えはじめると、まるでブレーキが利かなくなってくるので、そろそろ誰か止めて!(ぉぃ

 いちおう、何回か書いてきたロボットアニメ話の余話の余波ってことで思い付きをメモだけしておきます。

 近ごろ大人気らしい『創聖のアクエリオン』あたりを見た感想を思い出して、(まださわりしか見ていないけど、)もちろんパチンコの大宣伝の威力とか、そういうのはあれとしても。

創聖のアクエリオン DX超合金 創聖合体アクエリオン 創聖のアクエリオン Vol.1

 最近ではあまり見ないぐらい、古きよき(?)「スーパーロボット」のノリ満点(何て言ったって「無限パンチ」ですからねぇ~)のこれが、もしかしたらアニメファンの枠を超えた人気を博すかもしれないってことは、けっこうみんな、「スーパーロボット」大好きなんだなぁー、って思ったんです。

 これを逆に言うと、「リアルロボット」ふうの一見合理的な設定説明を嗜好しているのなんて、もしかするとアニメファンの中でもごく限られた、マニアックな「ロボットアニメ」フリークに限定される話なのかもね、という。・・・どうということもないけど、私なんかはうっかり失念しそうな話なので、思いついたときに書き留めておきます。

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ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など 余話 

[2008/01/26] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など その1

ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など その2

 感想じゃないものを書こうと思うと毎度グダグダに長くなってしまうんですが、ちょっと書ききれなかった話を書き足しておきます。

 富野監督は「リアルロボット」という言い方ではなくて、「ハードロボットもの」という言い方を『ガンダム』にはしていたらしいですね。(サンライズの作品の癖に、「ハード」という言い方はタツノコプロっぽい気がします。)

 ロボットが出てくるアニメには、ロボットの玩具が売れるという“大人の事情”があるということも一応了解しています。ただ、ごく個人的な趣味嗜好の話ですが、「そこはまあ、そういうことだから・・・」で終わってしまうのも寂しいんですね。ロボットはただの物語(人間ドラマ)の背景で、どっちかといえば本当はないほうがいいぐらいなんだ、あれは戦闘機とかそんなようなものとまったく同じ、ただの道具(本当にたまたま何かの間違いで人型をしているだけ)だよ、というようなロボットアニメは、何だか完全に(制作者も、ファンである私自身も)“大人の事情”に屈してしまったような気がしてしまって、どっか釈然としないわけなんです。

 なので、私は“ロボット”それ自体にテーマ性がある作品のほうが好きです。SFの歴史を覗いてみると、科学の象徴であるロボットを用いる物語は、文明批評的な性格を持ってきたのかな、と。
 ・・・と言っても、どんなにこじつけても今では非科学的なものでしかない人型の巨大ロボットに、現実的な科学文明を象徴させることは難しいので、どうしても未知の超科学のようなものを仮定せざるを得ないんですけどね。(本来はあり得ないはずのものがなぜか存在する、いわゆる「オーパーツ」としての巨大ロボット。)
 そうした意味で、『伝説巨神イデオン』は人間の意志を無限の力の根源とする究極の科学を象徴するロボット(もう少し正確には、それが内在する“イデ”)の物語であり、その超文明を仮定した中で人間は“業”を超越できるのかどうかという内容を扱っていて、テーマの面では古典SFのロボットものの伝統に連なるんじゃないかと思うのです。(実に正しく、「彼はロボットを通じて何かを思考しようとしたのかもしれない」と思います。)

「創作の中に相対化できない貴重な物の存在を、クライマックスで描写しようとする富野氏の思考は、SF人間の思考とは根本的に異なります.」(SF者達の挽歌

 富野監督には「SFマインド」なるものがない、という話なんですけど。「 様々な可能性を否定して絶対的な結末を導き出すという物語はSFでは成立しないということ」が、そのSFマインドなんでしょうか。よく分かんない。科学文明で説明できないことはSFでは書いちゃならないってことなら、そういうSFなんかでなくて全然かまわないと私は思います。でも私は「フランケンシュタイン・コンプレックス」っぽく、人間と、その文明の在り方を考察しようとするSFは大好きだなー。

ロボットアニメとは単にロボットが出てくる作品という訳ではなく、

  • ロボットが存在する必然性がある世界が描かれている
  • ロボットを他のものに置き換えたり、省略しては物語が成立しない

といった作品なのだろうと思います。

 しののめさんが昔お書きになった記事(むいむい星人の寝言: ドラえもんはロボットアニメか?)をコメントで教えていただきましたが、納得です。私は『ドラえもん』はとてもニガテなアニメで、ロボットアニメを考える中でも“アレはただのファンタジーだから”と念頭から外してしまっていたのですが、

  • 科学技術の産物であるロボットのドラえもんは、未来の象徴
  • ロボットは「人間と異なるもの」であるが故に、異形の存在が日常空間に入ってくる非日常を描く物語構造が成立
  • 他のものに置き換えては「ドラえもん」にならず、ドラえもんが来なければ話が始まらず、また「未来からやってきた」ことでロボットである必然性は描かれていることから、「ドラえもん」はロボットアニメと言える

・・・あっさり納得。たしかにロボットアニメかも。
 してみると、私がニガテなのは、『ドラえもん』の科学文明を疑わないところ、価値観の問題なのかもしれません。私はかねがね“みんなどうしてあんなに『ドラえもん』が好きなんだろう”と思ってきたのですが、それは「そもそもなぜ私たちがこうもロボットが好きなのか」と根っこのところで繋がっている疑問なのかもしれないですね。

 “夢の21世紀”も来てみればこんなありさまだっていうのに、高度成長期を懐かしむような風潮のほうが強いような国だからなぁ。・・・って言いながら、私もロボットアニメが好きなんだな、これが。やっぱり不思議なものですね。

ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など その2 

[2008/01/25] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

→ ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など その1

 この話の続きです。今日では「SF」にもいろいろあるのかもしれないですけど、その歴史的には、ロボットは、その“自律性”が特に重要視されてきたらしいということでした。科学の可能性の象徴のような、こうしたロボット観は、現在のSFの中では、人工生命という観点は“クローン”など、あるいは機械の支配という観点は“コンピュータ”に代替されているような気もします。

 ロボットアニメの話をしたくてウズウズしているんですが、そこをもう少しこらえて、「軍事用ロボット - Wikipedia」というあたりなどを先に読んでおきます。

ロボットを軍事活動に利用しようという概念は、「人工の兵士」という発想を考慮すれば、恐らくロボットという語以前より存在したと考えられる。危険な環境での活動を、機械に置き換えようという発想の延長である。

 産業用のロボットでもほぼ同様ではないかと思いますが、ここでいうロボットは「人の代わりに何等かの作業を行う装置」であって、「人のような装置」ではまったくないようですね。(ここ重要かも。)その中には、“自律型”も“遠隔操縦型”もあるようですが、「危険な環境での活動を、機械に置き換えようという発想」の意味からすれば、ロボットアニメによくあるような“搭乗型”のロボット兵器というものだけは、むしろ考えにくいと言えそうです。
 あえて可能性としては、「パワードスーツ」(外骨格型または鎧型、あるいは衣服型の装置)という考え方だけは、現在でも検討されてはいるようですが、その場合は人間サイズですよねぇ。
 それから、ロボット兵器の運用の実際を見ておくと、敵味方の識別や火器管制の分野で「人間のオペレータの操作が現在のロボット兵器には絶対必要」と考えられているようです。・・・ここでは「妨害・連絡障害による管制不能」がロボット兵器のウィークポイントとして考えられているようなので、《ミノフスキー粒子》みたいな電波管制を妨害する要因を物語の世界観のベースに仮定した『ガンダム』っていうのは、制作年代を考えると、そこはやはり大したものですね。

 日本のアニメの中で、特異な人気ジャンルである「ロボットアニメ」のことを話すときには、“人型の機械(またはそれに類する人造物)”を中心的な題材にした作品だという共通理解はありそうです。

西洋には今ではタブーとみなされる奴隷制があった。ために、人の形をなしていながら、意志をもたず命令通り動くだけの存在はタブーに近い。しかし、日本では奴隷制はなかった(意識されなかった)。それだけのことである。

 「人型」という点について、Nishinomaruさんのご指摘は、なるほどですね。SF的には、タブーにあえて触れるという意識がテーマになり得るんですが、日本ではむしろ「強力さ・卓越した能力・特異さなどを採り上げ非日常への憧れをかき立てる」ものとして肯定的に受け入れられているのでありましょうか。

 元祖ロボットアニメである『鉄腕アトム』は、亡くなった息子の姿に模して作られた自律型のロボットで、被造物としての自らの存在意義や人間との関係に苦悩するなど、SFの歴史的に見て(タブーにあえて触れた意識を持つ)正統派のロボットといえる気がします。
 非自律型(遠隔操縦)の巨大ロボットである『鉄人28号』は、まさに今日的なロボット兵器でした。ただ「リモコン次第で善にも悪にもなるロボット」というのは、まさに「意志をもたず命令通り動くだけの存在」ですね。巨大さと人型である理由について、何らかの説明があるのかはよく知りません。
 Wikipediaでは、この鉄人28号を始祖とする「巨大ロボットもの」を“潮流”という曖昧な捉え方で書いてあって、それは妥当な気がします。

人形を作り、それが動く(動かす)というテーマはユダヤ教のゴーレムやギリシャ神話のタロスでも明らかなように、人間にとっては根源的なテーマであり、創造主としての神への挑戦といった面も垣間見える。(オートマタ - Wikipedia

 「からくり人形などを見慣れていたため、日本人はロボットに対し親近感があり、ロボットに抵抗感のある欧米人とは対照的であるとする論もある」ってありますが、「からくり人形」を見慣れていたという理由はどうも・・・。機械文明に抵抗感、警戒感のない日本人って、いったい・・・?
 個々の物語ではロボットの強大さや人型であることについて、適当な蓋然性をでっち上げていますけど、それは後付けの言い訳であって、そもそもなぜ私たちがこうもロボットが好きなのかの積極的、本質的な動機はよく分からないままのような気がします。

スーパーロボットものが主にヒーローロボットの活躍という非現実性・娯楽性を楽しむものであるのに比べ、リアルロボットものは他のジャンルのドラマと同様にストーリーやキャラクターへの感情移入を重視するものと言える。
ただしスーパーロボットものに全くドラマが無いわけではなく、いくつかの作品では全体主義の恐怖や驕れる文明への批判など社会派のテーマを追求したシリーズ・エピソードが存在している。またリアルロボットものにおいても兵器としての巨大ロボットが扱われることで、ロボットによる戦闘の迫力やカタルシスに憧れ心奪われる側面もある。(ロボットアニメ - Wikipedia

 要するに「ロボットアニメ」と呼ばれる物語である以上、(少なくとも等身大の人間よりも)強大な力を持つ(“スーパーロボット”的である)ことも、そのロボットが物語の世界観の中に違和感なく存在している(“リアルロボット”的である)ことも、両者ともはじめから(その動機は曖昧なままで)前提にされている課題なのでしょう。「スーパーロボット」、「リアルロボット」という表現は、本来は定量的に現せないその比重の大小を、仮に便宜的に言うことで、その作品の傾向を示しているだけのものなんじゃないでしょうか。

 「そもそも、それほど数も多くないロボットアニメをふたつに分類することにどんな便宜性があるのか分からない」とNishinomaruさんはおっしゃっていますが、ロボットアニメという一つのジャンルを二つに区分するための定義としては、「スーパー/リアル」というのは使い物にならない(あらゆる作品に双方の要素が大なり小なり含まれる)と私も思います。
 ただ、定義としてではなく、何かを考えるためのテーマ、切り口としては有効な場合もある着眼点ではないか(anterosさんの提言を、私はそう理解しました)という印象があって、ではそのテーマをあてはめて何を考えようというのかというところで、“私たちはどうしてこうもロボットアニメが好きなのか”というあたりが根源的な問い(考察課題?)になるんじゃないかと思った次第です。

ロボットアニメ―「スーパーロボット」と「リアルロボット」の話など その1 

[2008/01/24] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 ちょっと難しい用語をときどき使われるんだけど、興味深いロボットアニメ論をブログにつづっておられるanterosさんが、私のブログのコメント欄での対話をきっかけにして一つ記事をまとめておられたので、読んでみました。

→ ロボットアニメの定義の話 - 主にマンガやアニメに関するメモ

 私のブログの記事には、毎度アニメの感想と雑談だけの内容しかないんですが、コメンテーター各位からはレベルの高い話題を提供いただいていて、いつも大変勉強させていただいております。
 で、私も感想の中で何気なしに使ってしまう、「ロボットアニメ」という言葉だったり、あるいは「スーパーロボット」、「リアルロボット」というような言い方だったり、そのへんの考え方を少し整理したほうがいいんじゃないかという話であります。ただし「その定義は、つまりこうだ」と決め付けるんではなくて、それらの言葉は、一つのテーマ、つまり話の切り口とか視座とか、そういうものとして扱うのが有効なんじゃないか、という提言をなさっておられるのかな、と私は読ませていただきました。賛成です。「Yesだね!」です。(笑)

 以前の対話で既に指摘のあったように、現在ネットでのアニメ談義界隈ではデファクトスタンダード的に通用してしまっている「スーパーロボット/リアルロボット」という言い方は、そもそもは大ヒットした『スーパーロボット大戦』というゲームあたりのボキャブラリーが一般化しているような印象がありますが、当のそのゲーム自体が、続編販売のたびごとに次々と新しいロボットアニメを加えていくことで、何が「スーパー」なんだか、何が「リアル」なんだか、わけが分からないことになっているのも皆さんご承知のとおりです。
 また、ロボットもののアニメの話だけしているときに、無言の了解になっているようなところが、もう少し広く「SF」の文脈の中ではむしろ逆になっているかもしれない部分があるかもしれないということも、話の切り口としては実に面白い。あるいは、現実の「ロボット」開発にアニメ世代が携わる時代になってきたことで、アニメの影響があるんじゃないのか、みたいな部分が生まれてきているらしいことも、何だか興味深い話です。

 ただ、非常に間口の広い話になってしまうものですから、私などはアニメに偏った見方しか出来ませんし、ここはWikipediaでも読んでみようかと思いまして。

ロボット (robot) とは、人の代わりに何等かの作業を行う装置、若しくは「人のような」装置のこと

機械としてのロボットとは、主に以下の意味に大別される。

  1. ある程度自律的に何らかの自動作業を行う機械。例・産業用ロボット
  2. 人に近い形および機能を持つ機械。『機動戦士ガンダム』や『鉄腕アトム』等のSF作品に登場するようなもの。いわゆる「機動兵器」や「人造人間」等。
 まずは「ロボット - Wikipedia」を見ますと、このようにすでに二通りの着眼点があるんですね。ひとつは“自律型”かどうか、もうひとつは“人型”かどうか。
 別に語源に戻る必要はぜんぜんないんですが、この造語をした小説家(カレル・チャペック)が指していたのは、「機械ではなく、今で言う人造人間」であり、泥人形“ゴーレム”(必ずしも巨大とは限らない)の伝説を下敷きにしていたという話などは興味深いですね。なるほどなぁ。

ロボットと言う言葉を生み出したことに少々苦い思いを抱いていたようで、「歯車、光電池、その他諸々の怪しげな機械の部分品を体内に詰め込んだブリキ人形を、世界に送り出すつもりは作者にはなかった」と述べている。

 人造人間は自律型で、かつ人型です。『フランケンシュタイン』がいい例ですが、それは神さまの領域を冒すものだと思ったんですね。

フランケンシュタイン・コンプレックス(Frankenstein Complex)とは、 創造主(キリスト教の“神”)に成り代わって人造人間やロボットといった被造物(=生命)を創造することへのあこがれと、さらにはその被造物によって創造主である人間が滅ぼされるのではないかという恐れが入り混じった複雑な感情・心理のこと。

 そこで、ロボットに対する人間の潜在的な恐怖から、三大SF作家の一人、アイザック・アシモフが有名な「ロボット工学三原則」を生み出したのだと。

アシモフが自らのロボット物にこうした行動の規制を設けた最大の動機は、短編集『ロボットの時代』で自ら語っているところによれば、『フランケンシュタイン』や『R.U.R.』から延々と繰り返されてきた「ロボットが創造主を破滅させる」というプロットと一線を画すためであったとされている。また、「ナイフに柄が付いているように、人間の製作物なら何らかの安全装置があって然るべき」「ファウストはメフィストと出会うべきであるが、破滅すべきではない」とも述べており、このあたりに合理主義者・人道主義者のアシモフらしさが伺える。

 これはロボットを代表例として、SF的に、人間にとっての「科学」の役割を考察しているんでしょうね。考察対象は、当然自律型のロボットです。(しかしこうして読んでいるとWikipedia、面白いですねー。)

三原則がSF界の常識として浸透した結果、ロボットやコンピュータが安易に人間に叛乱・支配を行う内容の作品はほぼ絶滅した。しかしながら、三原則の枠内でそうした状況を成立させる方便として、ロボットが下記の様な判断を下したとする設定がしばしば用いられる様になった。

  • 人類自身がロボットに支配される事・滅亡する事を望んでいる。
  • 過ちを犯さないロボットに支配される事こそが、人類にとって最も安全な状態である。
  • 優秀種であるロボットこそが、劣等種ホモ・サピエンスよりも優先されるべき『人間』である。

 このへんのSFの歴史をしっかり知っていたら、あれこれのアニメを見る場合にも位置づけの仕方が違ってくるんでしょうね。私なんかアニメしか知らないものなぁ。

 

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結局見てしまった(笑)『機甲創世記モスピーダ』 

[2007/12/13] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 さんざんあれやこれやと言いながら(笑)、結局GyaOのおかげで最終回まで見てしまいました。(放映は12/18まで)
 “途中で打ち切られた”みたいな話を読んだような気がしていたので、かなり覚悟をしていましたし、ラス前の回はけっこう「うほっ、強引!」と感じましたが、最終回は案外きちんと最終回をやってました。この作品全体としては、それほど締りがある感じではなかったんですけど、そういう意味では、昔のアニメってのは、ちゃんと仕事はしていたような気がしますね。

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 ネットの無料配信のアニメって、昔、夕方に再放送していたアニメを、別に見たくもなくても何となく惰性でだらだらと見ていた、そういうのにも似た気楽さがあって、結局そんな感じで気楽に楽しく見てしまった気がします。いい年をして、そんなことしてるのも恥ずかしいのかもしれないんだけど、たかがアニメだから、本来はそんな楽しみ方が妥当なのかもしれません。
 ・・・って、世の中の多くのアニメファンは気楽に見ているほうなんでしょうけど。こういう機会に振り返って考えてみると、ロボットものなんかに恥ずかしげもなく“感動”のようなものを求めて、貪欲に見ようとばかりしていて、さすがに少し息切れしてるのかなあ、私も。(苦笑)

 何しろ、このモスピーダ。頭の固い軍人スティックと、何だかいい加減なレイのダブル主人公がいちおうは物語の軸だったんだろうけど、各回、多彩なキャラクターの味はそれなりに出ていたわりに、程ほどのところで収めてしまうというのか。ぐぐっと盛り上げるところまでいかないアンニュイさ(?)が、作品の雰囲気になっている、私にとっては不思議に脱力系のロボットアニメでしたねー。そういう時代(爛熟期?)だったのかなぁ。
 最終回になってまじめにやれば、この程度には出来るんだったら、同人誌的なお遊びをしていないで、最初からもう少しきっちりと物語をやってれば、もしかしたら、もっといい作品になった可能性もあったろうかなんて思ったりもします。だからスタッフに地力はあるんだけど、強力に引っぱっていくリーダーシップの問題だったんでしょうかね。
 今のアニメはどうなんだろう?お遊び要素もきっちり管理されてきちんと詰め込まれている気がして、こんな『モスピーダ』みたいに、毎回スタッフのやりたい放題・出たとこ勝負(←ちょっといい過ぎ?)が野放しなんてことはあり得ない気もするんだけど、管理能力とリーダーシップはまた違うものですからねぇ。