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「これからはどちらかと言えば、政治と無縁のまま過ごせる方が特権階級」 

[2008/09/14] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

これまで政治というのは特権階級の仕事と思われていたけど、これからはどちらかと言えば、政治と無縁のまま過ごせる方が特権階級で、庶民は、たとえば自分の仕事と家族と趣味を守りたい、というささやかな望みを持つだけでも政治に関わらざるを得ない。

 上記のようにessa先生が書いておられて、何か“ビビビッ”と電気が来たんですけど(笑)、なんだったっけなーと、考えこむことしばし。

 essa先生が直接言及しておられる「MIAU」というのはぜんぜん知らなかったです。ググってみてなるほどそういうことかと。

ネットワークの自由には価値がある。
ネットワークの自由は古い制度に縛られている。
ネットワークの自由を主張し擁護する組織的主体がない。
だから作ることにした。
それがMIAUだ。

 私はWEB音痴ですけど、ネットワーク技術の発展が、世の中そのものの急激な変化を促しているというのは分かります。その発展を制限する方向に働く既存の社会制度に対し、「ネットワークの自由」を働きかけていく、という趣旨の運動に対して、それが「社会派」的な色を帯びることの是非についての対話というふうに理解させていただきました。(違っていたら、ご教示くださいませ。)

 それで、「社会派」的な色を帯び過ぎると支援が得にくくなる、現実的な調整が必要かも、という懸念に対し、

それは一般的な観点ではあるとは思うけど、一方で、ネットに関する技術やビジネスは本質的に政治的なものであるとも私には思える

というのが、essa先生の見解のようでした。

 以上は長い前置きで(笑)、「これからはどちらかと言えば、政治と無縁のまま過ごせる方が特権階級で、庶民は、たとえば自分の仕事と家族と趣味を守りたい、というささやかな望みを持つだけでも政治に関わらざるを得ない」という言葉を読んで私が“ビビビッ”と来たのは、よくよく考えてみたら、たまたま先日目にして、ちょうど『ニーチェ入門』とか読み直していたので強く印象に残っていたCrowClawさんのブクマコメントにあった言葉でした。

ニーチェの予言通り末世=現代とは奴隷が権力を握る時代のこと。寄生獣ではないが余暇=暇とは本来人間の良心の源泉であり、心に暇のない人間は必然的に悪魔化する

ニーチェ入門 (ちくま新書)

 『ゼロ年代の想像力』を読んでいたら、どうもニーチェ先生との違いが分からなくなってきたので読み直している『ニーチェ入門』(まあ、“入門”なところで私の地頭の良くないところは察していただくとして、)なのですが、読み合わせると個人的に大変面白いんですね。(素直じゃないとも言う。)

 それがこういうところでも一考の価値があるなぁと、思ったのでありました。

 “ネットの自由”を掲げる運動が、“ネットの奴隷”になってしまう可能性とでもいうんでしょうか。ネットの「先進ユーザ」という考え方は、よい意味のエリート論でもあるような気がします。

ネットに関わる人は、技術者もビジネスマンもユーザも「自分たちは核のように危ない領域に関わっている」という自覚が必要だと思う。

と、essa先生がおっしゃっているのは、エリートの義務について述べているのではないかと。
 また、あるいは、“「誰かが『社会派』をやってるけど、自分は『普通のネットユーザ』」みたいな錯覚”には注意すべきだという言い方のほうは、ポストモダンの今の世の中の中では、誰もがゲームのプレイヤーであり、そこから逃げることはできない(特定のエリート任せはあり得ない)という、『ゼロ年代の・・・』的な話にも繋がるのかもしれないな、などとも思ったり。

 少し背伸びして、私の理解力を超えたところの話を今日は書いてしまったのですけど、たまにはこういうのもいいでしょう?(笑)
 っていうか、基本的にはルサンチマンの塊のような私なんですけどねー(笑)。いろいろ私の認識違いとか、読み違いとか、ありましたらご教示いただけましたら幸いです。

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自己矛盾 

[2007/06/12] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

「古い?古くない?」という話で思いつきましたが、そういえば、未だに「新しさを競う」ような表現がこのへんのやり取りの中にはあるようで、(「○○主義」もそうなんですけど、)そこいらへんも難しいなぁ~というのが私の“感想”です。

…と自分で書いておいて、「未だに…」って自己矛盾もはなはだしいなぁと、思わず自分で笑っちゃいました。“新しいか、そうでないか”って価値基準なんて、モダニスムのにおいがぷんぷんしてる気がするんで、世の中ポストモダンだとか言ってるのに何だ…ってなことが言いたかったはずなんですが、言うに事欠いて、言ってる端から「未だに…」とか口を滑らしちゃうんだから、まったくお笑いですね。(笑)

ポストモダン(Postmodern)とは、「モダン(近代)の次」という意味であり、モダニズム(近代主義)の理論が通用しなくなった時代のこと。ポストモダニズム(Postmodernism)とは、そのような時代を背景として成立した、モダニズムを批判する文化上の運動で、近代の行詰りを克服しようとする動きのこと。

ポストモダン - Wikipedia

 思わず読み返しちゃいました。じゃあモダニスムの理論って何なのよと思ってWikipediaを見てみたら、「近代主義のこと」で終わり?そりゃひどい。じゃあ近代主義って何って調べたら、モダニズムに転送されて戻ってきちゃいましたよ。(笑)

六十年代のフランス思想を中心として「近代・モデルネ」を総体として対象化し、問題としてとらえ、とくに「近代」の主意主義的個人主義、工学的・道具的理性、普遍主義的傾向(主体、合理性、形而上学)を批判する思想潮流を、外部からジャーナリスティックにラベリングした言葉。とくに、その名で概括される諸思想に緊密な思想的関係があるわけではない。

また、そうした思想的傾向の背景となった、「近代的」とは異なる特徴を帯びた、社会的状況をも意味する。その具体的内容は論者によってさまざまであるが、多くの場合、資本主義の高度化とグローバル化、情報化などが指摘される。

ポストモダンとは - はてなダイアリー

 こっちのほうが難しいんだけど、よく読めばこっちのほうが内容はあるのかな。“とくに「近代」の……を批判する思想潮流”って言ってるんだから、近代丸ごと批判の対象ってわけじゃないんだ。
 「われわれはいまも今後も近代(=モダン)が伸びてゆく時間軸とともに生きていかざるを得ない」のは、自明に近いことにされているんですねぇ。そうか、なぁ~んだ。そうなのか。
 じゃあ、「ポストモダンかどうか=新しいかどうか」というのもそんなに自己矛盾した物言いではないんですかね。やっぱりなんだか難しいや。

刻が未来へすすむと 誰が決めたんだ

『ターンAターン』 作詞:井荻麟

 それで言ったら、これは「ポストモダン」の話じゃないのかもしれないけど、だったら私には、このほうが新鮮だなぁ。(あ、また“新鮮”とか言ってるし!自己矛盾!! w)


「メッセージ性」と「ポストモダン」と「Zガンダム」 

[2007/02/23] | 新訳Ζ | トラックバック(2) | コメント(0) | TOP ▲

 “メッセージ性”が強い作家ということで、富野監督などは持ち上げられて、ここまで来ているような気がしますが、私は実は「本当にそうなのかなぁ」と思いながら作品を見ています。何か考えながら作品を作っていることはいつもそうですが、結論を持って、その表現として作品を作るというよりも、まさに作りながら考えて、その思考の振れ幅みたいなものも作品の中にダダ漏れで、そこからどういうメッセージを汲み取るべきなのか、富野ファンの多くでさえもなかなか掴みにくい作家なのではないかと。(そこが好きだったりする私もたぶん、この方のメッセージを、しばしば掴み損なっている一人なのかもしれません。)
 メッセージには“発するもの”と“受けるもの”が常にいるわけですが、ただ出されたものを丸呑みする受け手だけでなくなったことは、たぶん良い方向に時代が進んだのではないかと思います。その半面で、発し手と受け手の境界が曖昧になったことで、どんなメッセージもまっすぐには伝わりにくい、難しい時代なのかもしれないなぁとも思っています。
 富野さんに関して言えば、「何が正しいかハッキリしない世界(ポストモダン)」という時代を、あの年代のおじいちゃんなりに考えていればそうもなろうかというように、私は好意的に受け止めているんですが、これは単に私の嗜好の問題、ひいきの引き倒しかもしれません。(それこそハッキリしない・・・。)
 ところで富野さんのことはさておき、一般論としては、何が正しいのかハッキリしない世界ということを前提にした場合に、メッセージが「正しく」機能することというのはあり得るのでしょうか。また、「正しく」機能しないメッセージには、存在価値はないのでしょうか。(抽象的な話ですみません。)
 実は私には「ポストモダン」ということが、まだすんなりと呑み込めていないところがあります。(20世紀が実態としては19.5世紀だったんじゃないかというような話の延長。)――確かに現代という時代に作られるものは、21世紀を見据えて作られなければならないし、こよみはたしかに21世紀なんですが、現代という時代は全然20世紀を引きずっているし、下手をすれば19世紀の遺物だって平気でその辺にごろごろしている。私にはそういうことが気になっちゃいます。現代を見据えるということは、そういう実態を見据えることでなくてはならないんじゃないかと。

ガンダムというものは自分の中に、要するに荷物として背負わされてしまってから、考え始めたことがあって、戦争はもう現在以後の人類史の中では、絶対にあってはいけないやってはいけない行為になってきたっていうこともわかってきました。Zを作っているくらいまでの頃は、それでも僕自身も人類史にとって戦争というのは必要悪かもしれないとも思っていました。けれども、21世紀というのはそういうふうに歴史をとらえていたら、21世紀中に人類は滅びるかもしれないんです。たかがこれから100年くらいで。

ひびのたわごと 手を尽くして

 これなんか読むと、(富野さんの言うことをどれだけ真に受けるかというのもありますが、)『Zガンダム』ぐらいまでのほうが何が正しいのか間違ってるのかは弱かったのに、今のほうがメッセージははっきりしてきています。でも子犬さんが言っておられるとおり、“ハリウッドや世間を括目させる”などというのは難しいなんてもんじゃないですし、そのメッセージも、以前よりもさらに機能しなくなってきている気がします。
 「そんな人類にしたくはないっていうことを考える次の世代を作りたい」という言い方は、何が正しいのか間違ってるのか、それを知っている大人が子どもに教えるのが「成長」という古臭い教養の考え方に、たしかに聞こえます。ただ自分で「考える」、「そういう人に会いたい」と言うところには、可能性は読み取ってあげてもいいんじゃないかと思うのです。

いや、この際ミもフタもなく言って、80年代後半から90年代前半の一時期、高年齢層が「真面目で難しい人間ドラマをやるアニメ」にウンザリして、メカと萌えだけで別にいいや、となってしまったきっかけを作った張本人が、神経症アニメのZガンダムだった、という見方もできる――が、良い意味でも悪い意味でも、Zガンダムという「TVアニメでここまでギスギスした神経症人間ドラマもあった」という前例あってこそ、エヴァンゲリオンだって出てきたんだろうし(富野監督当人はこの言い方を嫌がるようであるが)、その風下の今のセカイ系もあるわけだろ、という話になる。

電氣アジール日録 - 1985-2005

 『ビューティフルドリーマー』以来の「現実に帰れ」というメッセージが、『エヴァンゲリオン』を経ても機能しないのは、アニメという娯楽的に消費される枠組みの中でやっている限り、ぐるぐる回りを続けるしかないという、やり方の問題なのでしょうか。

 「自分で考えなさい」というメッセージを機能させるためにはどうすればいいのか?まずメッセージの場に注目させるための娯楽性がどうしても不可欠なのか、ということもありますが、そうしておいて冷水をぶっかけてもエヴァは充分に機能しなかったようです。そうなったときに、「ええーっ、そうかなぁー!?」と言わずにいられないようなメッセージを(それが機能するかしないかにこだわらず)投げかけるというやり方で、自分で考えることを促すこともあってもいいような気がします。(その意味では、“ハリウッド”云々は、注目への希求なのか、機能することへの執着なのか、私には判断できません。そうした物言い自体が、あえて反発を買いそうな戦略トークである可能性も含めて。)
 『ポストモダンとは - はてなダイアリー』に、「それを用いる者には、降りかかる危険を未然に防ぐため、相手の教養の成り立ち具合に一応の留意が必要である。…ただし、それ以前に自分の教養の成り立ち具合に留意が必要である。」という注釈があって、冷や汗が出ました(笑)。私の教養レベルでは、どうも満足に考えることも難しいようです。
 ただ、そんな私でも今という時代は、こんな程度ですが何か書いて、自分なりに考えてみようとできるんだから、たしかに自分で成長するための環境は整ってきているのかもしれないですね。だけどこれは、ここでいろんな方と関わりあうことで、やれていることであって、自分ひとりでは一歩も前には進めないかもしれないです。
 新訳Zでは『ZZ』や『V』に比べ、“大人”が主人公を導く構図だから古い、というのが私には分かるようで分からないのはそこです。TV版の『Z』では、導いてくれないシャアにイラついていたカミーユが、劇場版ではあまり依存し過ぎずに自分なりに考えようとしていた気がするんです。むしろ、以前に“上手に関われない”ことを恐れ、みすみす若者を破滅させてしまったのは大人たちのほうだったので。私には、新訳の大人たちは、導けないまでも関わろうとしていたように見えたのですが、それは私も“大人”を拒否できない年齢になってしまったから、そういう感想を持ったんでしょうかね。
 大人だって生きてる限りは成長はしたいんで、“ダメな大人は黙って引っ込んでたほうがまし”と言われたような気がすると、私はちょっぴり寂しいです。――そんな意味では『新訳Z』は、over35推奨の作品でしたかねぇ?(笑)

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やっと帰宅しますた w 

[2006/11/17] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 出張からやっと帰ってきましたよ。久しぶりにパソコンのキーボードを叩くと安心します。…重度のネット依存症な自分を再認識。まったく困ったものです。安心するのもつかの間、RSSリーダーの「未読」の数に、目の前が真っ白になりかけていますが…。
 旅のつれづれに読んでいた『動物化するポストモダン』は、昨日のうちに読了いたしました。ざっくりとした感想は一昨日書いたとおりで、「第3世代ってこういうことらしいですよ」という分析は「うわー、そうなのかー」という感じです。ネットを眺めていると異論反論、とにかく反発も強いみたいですけどね。

動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会
東 浩紀 (2001/11)
講談社

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 何しろ想像していたよりは、かなり親切に分かりやすく書こうとしている本だった点に驚きました。それだけ突っ込みどころも満載なのかもしれないんですけど、私にはそのへんは分からないので、「なるほど、ためになるなぁ」と素直に感心。本当は、「眉唾、眉唾…」と念じながら読もうとしたのですが、私って、私のレベルでも読めるような配慮をしてくれる相手には、すぐに影響されちゃう傾向があるような気がしますね。(もっとも、そんな簡単に分かった気になっちゃいけないんでしょうけど。)オタク系文化の源流にあるアメリカの影響とか、私の最近の関心にけっこうヒットしてしまったところも好印象。
 ただ現状に至るまでの鋭い分析に留まっているという批判はなんとなく理解できる気もして、なおさら続刊が出るのなら読んでみたい気もしますね。
 今日、帰りの列車で読む本がなくて、思わず手にしてしまった本はまた、あまり考えないでいいようにと思って全然違う本を選んでしまったのですが、……その話は、また今度にいたしましょう。(笑)
 旅先での仕事のほうは、ちっともたいしたことなかったのですが、今回はなんだかとっても疲れました。徐々にリハビリしていきたいと思っています。ではまた!


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宮崎さんにポストモダンは似合わない? 

[2006/06/04] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

宮崎作品のキャラって感情移入し難いからじゃないかなぁ。きっと監督の目線が観客と違うんですよ。


 皆さんのコメントにはいつも触発されます。(笑)
 宮崎アニメのキャラクターの「目線」は凄く計算されているというふうに聞きますが、たしかに監督自身はキャラクターに感情移入してるふうではないかも。(だからといって観客の目線とも重なり合ってはいないような。)前回も書きましたが、宮崎アニメは本当は難解だと私が思うのは、そういうこともあります。
 高尚っぽい宮崎監督論や押井監督論。たしかに少なくとも私には縁がないのですよねー。(深い関心がないと言うか・・・。笑)
 富野アニメで何故か元気付けられてしまう。はい。ぶっちゃけ私の関心などというのは、そこいらへんをぐるぐるしているばっかりですので。(笑)

 え、何々?そんな私なのに「ポストモダン」とか、難しい言葉に食いつかれちゃったら、困っちゃう~。(笑)

学問を通じて、人びとは唯一の真理と正義に向かって進歩していける、と信じていた時代、これが近代だった。いまでは、そんなことはもうだれも信じなくなっている。私たちはいま、ポスト・モダンの時代に生きているのである
近代(モダニティ)とは何か:社会メディア論]


 難しそうな解説はいっぱいあるんですけど、基本はこの「唯一の真理と正義」を認めるかどうかでいいんじゃないでしょうか。(「近代」をどう考えるか次第で、現代はポストモダンの時代ではなく、いまだ不完全な近代化の過程の中だという見方も強いようですが。)
 シシ神の森とタタラ場の双方に理を認めて、超越した絶対真理による胸のすくような解決がそこにはない、というようなことですよね。あれもこれも正しいとする立場は地に足が着いた話ではあるけれど、全体を見通した絶対者の視点はどこにも存在し得ない。
 だから富野さんは「愚衆」と口にしながらも、迷える立場のひとつひとつへと視線が降りているから、激しく感情移入して見ることが出来るんだけど、宮崎さんの場合は、唯一宮崎監督自身の視点だけは「絶対者」に近いのかもしれないんじゃないでしょうか。
 それで富野キャラクターのセリフはあっちへ行ったりこっちへ行ったりして難解なようで、個々には納得できる。それに対して宮崎キャラクターはわかりやすいことを話しているようで、実は難しい話だということがかえって読み取られにくい、のではないかと。(庵野さんは案外シンプルなことをとてもとても難しそうに言わせる天才なのかな? 笑)

 宮崎さんの理想と趣味の葛藤というのは、キレイゴトになりがちな表のテーマを外してみた場合に、ものすごく関心があるテーマですよね。かつては例えば『ゆうれい船』のミリタリー描写という趣味の影にこっそりと、街中に戦車が出現する風景の恐怖という理想が語られていたとも言えるでしょうか。最近はどうなのでしょう? 表向きは立派なテーマの影で趣味的なものがにじみ出ているとすれば、あまりよい傾向とは言いがたいですね。
 もし、もう「語るべきことは語った」ように見えてしまうのであれば、もはや老いてしまって世に対して言いたいことはないのか、表現が伝わることに絶望してしまったのか。絶対的な真理も正義もない時代だと言われたら、理想はおざなりでよくなってしまったのか?
 つまらん。モダン→ポストモダンなんてのは、まだまだ行ったり来たり循環するのじゃないのか? 学者さんたちじゃあるまいし、あまり自分だけ高尚にならないで、監督自身も地に足をつけて矛盾の中に真理のありかをもう少し探してみて欲しいんだ、私は!

 あー、最後は文句になってしまった。お分かりだと思いますが、嫌いじゃないから文句を言いたいんですよ。
 例えばね、「いかに生くべきか」という物語の問題をアニメ史で考えたときに、70年代『宇宙戦艦ヤマト』、80年代『機動戦士ガンダム』、90年代『新世紀エヴァンゲリオン』で語られてしまったりするでしょ。「第~次アニメ革命」みたいな言われ方もするこの3作品の共通項として「最初の予定どおりに制作する事ができず、えいや! と話をまとめようとした」と言うような指摘もあって、なるほどなぁと。
 こういう大げさに言えば日本の現代思想史とも言うべき中に、「世界に誇れる日本アニメの請負人」の作品がちっとも入ってこないってのはいったいどういうことなのよ、とは思いませんか?
 どうにもまとめようがなくなるほどのものを抱え込むことをせずに、あらかじめ計算できる形式の中で収まってしまっているのは、普通につまらんです。「世界に誇れる」なんてのは、お役所の好きそうな話に過ぎないと私は思う。その実力を「革命」の請負人(笑)に向けて、たまには「えいや!」と無茶をして欲しいものだと。
 
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