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太陽の王子 ホルスの大冒険 (1968年) 

[2006/07/22] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

太陽の王子 ホルスの大冒険 太陽の王子 ホルスの大冒険
大方斐紗子、 他 (2002/07/21)
東映

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 昨夜、「ハウルの動く城」を放映してましたから、今日のインターネットはその話題で盛り上がってるんだと思いますが、やむないこと&毎度のこととは言え「ゲド戦記」の宣伝色が強かったのに、私としては作品以外のところで少々、食傷気味…。
 だからってわけでもないですが、今日は、TSUTAYAで先日たまたま手にした古典名作――宮崎アニメの原点とも言われる「ホルスの大冒険」の印象を書いてみます。
 当時の宮崎駿はまだ一介の新人に過ぎなかったわけですが、次々と独自のアイデアを出して、「場面設定」というメインスタッフ名を勝ち取ったんだとか。演出は盟友の高畑勲、作画監督は大塚康生というゴールデントリオが揃った東映動画の黄金時代到来というわけであります。
 実は、私がアニメを見た記憶の一番古いものが、東映動画三大傑作のひとつといわれる「長靴をはいた猫」でして、東映まんが祭ではなくて、なんか市の文化会館みたいなところでの名作上映会みたいなので、小学校2~3年生ぐらいのときだと思います。
 かように名高き傑作のホルスながら、私は今回が初見だったのですが、絵を見ると、やっぱり古い感じはどうしようもなくありつつも、けっこう楽しく見てしまったのは、この辺が私のアニメの原体験に近かったりするからなんでしょうかね。(だから誰にでもお勧めできるかというと、ちょっと自信がない。)
 ・・・でも動きなんかは全般にけっこう良い気が。群衆シーンの描き方なんかはすごいと思ったところもあり、北欧風の舞台設定と言うだけではなくて、海外のアートアニメーションっぽい味わいがありました。(たぶんそういうのを強く意識していた時代なのでしょう。)
 ところどころギクシャクと、時代を感じさせる表現も散見しますが、会社側と対立しながら制作が進められたというような背景事情がどうもあるらしく、とにかく許された環境の中でギリギリできる限りのものを作ろうとする気迫がむしろすごい。(正直、少し息苦しいぐらいの圧迫感さえ。当時、これだけの力作が興行的に成功しなかったというのも何となく分かります。)
 あらすじは、東映アニメーションのホームページあたりを見ていただきたいですが、東映動画から社名も変わったとはいえ、下記の解説は、なんだか苦笑交じりにしか読めませんね。

かいせつ
さまざまな困難の中で、3年の歳月と作り手たちの持てる技術と労力の限りを尽くして作り上げた日本アニメーション映画史に燦然と輝く傑作。
にもかかわらず、公開当時漫画映画なのに笑えるところが一つもないとか、詰め込みすぎて余裕が無さ過ぎるという評があったり、ちっともお客がはいらなかったりで、散々であったが、年を経るにつれてその真価が認められ、東映映画の代表作となったのだ。


 そのホルスは、物語としてはいかにも王道の冒険ストーリーで、わりとポンポンと(あまりひねりもなく)出来事が積み重ねられますが、中には「小ずるい」大人もでてきたり、人々は基本的に「愚衆」(最後には団結しますけど)だったりと、子どもが見るには厳しそうな現実的描写もありました。(この辺は高畑テイストなのでしょうか?)
 しかしこれで本当に82分でしたか!?
 やはり「まんが祭」とかの関係で、かなり時間圧縮されたのかとも思いますが、見終わったときの体感では、2時間超の大作をみたぐらいの印象です。
 冒頭のホルスの旅立ちのシーン(未来少年コナンそっくり!)をはじめ、随所にのちの宮崎アニメのモチーフの初期描写が散見されます。なのに、こんなことを言うと、皆さんには「エーッ!?」って思われるかもしれないけど、最後まで見た印象は、宮崎アニメの原点って言うよりも、むしろ富野アニメを見たときの感じに近かったような。(笑)

 最近ネットで読んだ富野由悠季論の中で、「富野由悠季自身が常に抱えているある種の破綻」は「物語の大筋をぶち壊してでもやりたいことをやるというということで、それが原因で物語が破綻してもかまわない、という性質」にあるという、まさに一刀両断な言葉を目にして、あまり見事に斬られたのでちょっと嬉しくなってしまうということがありました。
 もちろん作家本人は物語をぶち壊したつもりではなくて、ギリギリのところで成立する、(うまく言えないが)物語を超えた「表現」を追求しているのだと、私は思いますが、それに近いものを、この「ホルスの大冒険」に感じたということです。
 「アニメミュージカル」ということで、全篇歌声にはあふれていますが、ナウシカ以後の宮崎アニメを彩る久石譲ミュージックの華麗さはないです。もちろん鈴木敏夫のプロデュースもない時代。だからこそなのかもしれない、この少しギスギスとした(けれど何かが胸に残る)「表現」は、(名作・傑作と言われながらも)今の人たちには受けないだろうな、と正直に思いました。(当時もか!)

 私はぜんぜんジブリ通ではないので、この作品の宮崎テイスト、高畑テイスト、大塚テイストの区別もよく分かりません。
 それでもなお、個人的な感想ですが「作家性」というものは、上手に物語をつむぎだす職人芸とは違うらしいぞ、という手ごたえを得ることができただけでも、これは一見の価値がある作品でした。
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「理想的共同体」 

[2006/02/08] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

yasuakiさんのところナウシカ論に「風の谷について」を更新されたとのことで、さっそく読ませていただきました。
「うんと尊敬される場合と、妬まれて村外れに住むケースがある特殊技能者」といった民俗学的視点など、面白いところは(宮崎さんは風の谷の生活を描きたくてたまらなかった、とかも)たくさんあったのですが、今日、特に目にとまってしまったのは、参考として挙げられている押井さんの「風の谷」的共同体を批判したコメントでした。

宮崎さんたちの世代とはノウハウにちがいがあるんです。つまり、あの人たちが信じているものが、ぼくらには信じられないんです。「ナウシカ」では、理想的な共同体が”風の谷”という形で、描かれています。それは「ホルス」や「コナン」でも同様に存在する。
ところが、ぼくらは共同体や仲間という存在がストレートには信じられないところに立って作品を作っているんだと思います。だから、人間が守らなければならないものを描くにしても、あんなふうになんの疑いもなしにはそれを描けない。
こういった違いが、ぼくと宮崎さんの思春期の体験のちがいなのか、資質のちがいなのか、さっきいった世代のちがいなのか、はっきりとはいえませんが、でも、とにかくぼくには、ああいうふうな臆面のなさはないと思うわけです。


これ、本当はノウハウが違うとかの次元の話じゃないような気がします。

・・・"共同体"と"社会"とは、「違うよ」ってたぶん言われるんだろうかなと思いながら、ついつい「絶望しちゃいない!」のかどうかの話の続きで読んでしまったりするのが、私の悪いところなのですが・・・。

どこで読んだのだったか忘れましたが、『逆襲のシャア』について書かれた文章で、アクシズが奇跡的に墜ちなかったのは、アムロの末期の夢(笑)で、あれは間違いなく墜ちたんだ、少なくとも富野さんはそう思ってるに違いない(あれは世間の手前、自分で思ってもみない良識的エンディングにまとめただけだ)っていう感想を読んだことがあって、「えぇーっ!?」って思ったのをふっと思い出しました。
(それは「信じられない」というところを徹底すると、同じ作品の同じ結末でも、まったく違う読み方ができてしまうという、実に考え込まされる文章だったのですが。)

宮崎さんとの「世代」の違いとして、はじめは言い出した話を、「思春期の体験のちがいなのか、資質のちがいなのか、さっきいった世代のちがいなのか、はっきりとはいえません」と押井さんも言いなおしています。そこで押井さんの念頭にあったかどうかは保障の限りではないですが、宮崎さんの同世代であるはずの富野さんは、もはや「信じられないところ」にたぶん立っているのに、(それこそ臆面もなく)アムロに「絶望しちゃいない!」と断言させたわけです。
「なんの疑いもなし」どころか疑いに疑いぬいて、読み方次第ではこれだけ疑っている人間が、まさか「信じている」わけがないだろう、というようなやり方ではありましたが。

クリエイターは公共をもっと意識すべきだ。押井守も、なんであんな風に自分の作りたいようにだけ、作れるんだっ!(『萌えてはいけない』メモ


こういった言葉を吐いていることを見れば、富野さんが、世の中はどうでも、自分だけは自分が美味いと思うものを追求すればいい(社会がどうあれ、関係はない)というスタンスを、激しく拒絶していることは明らかだと思います。
(そう、確かに『うる星やつら』あたりがターニングポイントなのかもしれない。他の人の論議と御大の話は全然かみ合ってないように見えますが。)

オタクが"萌え~"と言っているものたちはともかくとして、例えば富野さんはもちろん、押井さんの作品よりもはるかに、宮崎アニメは圧倒的な大衆の支持を得ています。
人気があるものには「それなりの良さがあるはず」と言われるものを、もしここで探してみれば、それが絶対にあり得ないものだろうとどうであろうと、人々の心には「理想的共同体」への渇望が、いまだにあるのに違いありません。
ただ、今日ではそれが「頭の中の理想の女に比べれば、現実の女なんてどうでもいい」(オタキング)といったことと一緒くたになって押し寄せてきています。その時に、果たして「理想」をあたかも現実であるかのように見せるだけでいいのかということもまた、あると思うのですね。(アニメーションにはそれだけの力があると思うのです。)

今、『ブレンパワード』を見始めてますが、目がきらきらしたキャラクターが(萌え系でもないと思いますが)どうしても好きになれない。趣味じゃない。ところが御大も、あれはどうも好きじゃなかったらしい。あえてそういうのを使うのってどうなのよと思ってたわけですが、趣味じゃないので変な思い入れが起きない。そういう現象があるなと思いながら、興味深く物語の成り行きを見ています。

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