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『聖戦士ダンバイン』 第16話~第18話  

[2007/02/13] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 何だろう?普通は、定番とも言える“親子の断絶”のほうに注目するんだろうけど?(ずいぶんいきなり地上界に舞台が移りましたが、考えてみれば物語の導入から唐突にバイストンウェルに来てしまいましたから、プロセスとすればむしろ遅いぐらいとも言えるんでしょうね。)

第16話 東京上空

 ダンバインは試作機だから、スペアパーツもないし、損傷すると大変だ。フォイゾン王はニーへの援軍に、自国製のオーラバトラー“ボゾン”を10機も送ってくる。新たに召喚された三人の地上人も、いよいよオーラバトラーを与えられて戦いに加わってくるようです。バーン・バニングスは作戦指揮権をショット・ウェポンに奪われてブンむくれ(笑)。「今日のガラリアは違うぞ!」ってことで、ショウと二人でパワーアップを競っていたら、いきなりオーラロードが開いてしまった。(そういえば、前話で言っていたとおり、チャム・ファウがショウと一緒にダンバインに乗っていた。そんなことも関係あるのかな。)
 うわ、出た!不倫ムード満点の親父と教育マニアの母親、あまりにも富野アニメにありがちな・・・(笑)。いきなり現代日本にオーラバトラーって、凄い絵だ。「違うわ!そんなかっこうした人が、うちの息子であるものですか!」「出て行け!本当に息子だって言うんだったら、あんなものに乗ってくるわけがない!」・・・うーん、そういうもんかも知れんなぁ。
 パニック状態のガラリアと東京上空で空中戦が始まってしまった。バイストン・ウェルから来た武器の破壊力は、地上では幾層倍に?この爆発の描写は凄い。

第17話 地上人たち

 バイストン・ウェルでは、そこに満ちるオーラ力が爆発力を弱めていたってことみたいですね。チャムがいてくれることで、ショウはいろいろと救われているようです。マスコミの描写が痛々しい。えー、30万人も死んだの?バイストンウェルの話はおとぎ話のようで信じられなくて、宇宙人だと思い込みたいって言うのも面白いですね。
 不慣れな地上界で戸惑うガラリアさんの、心細そうな描写が微笑ましかったなぁ(ガラリアさんのファンがいるっていうのも何となく分かったような気がしました。)。犬まで放して集団で彼女を追い立てる地上人たち。これもありがちとはいえ、実に痛々しい。
 すごい、チャム・ファウ大活躍!「くぅー、オーラ力ぁー」って…(笑)。(信じてないショウも可笑しい。)
 通常兵器を次々と撃破してゆくガラリアのオーラバトラー“バストール”を見ていたら、エヴァンゲリオンでのアスカの戦いを思い出しました。この回の作画(演出?)は(もちろん時代は感じるんだけど、)ただ事ではなく凝っているなぁ。

第18話 閃光のガラリア

 おー、いったんバイストンウェルの描写に戻った。エルフ城陥落、フラオン王もみじめな死に様をさらすか。ゼラーナも危ういところで撤退。援軍のボゾン10機も全滅か・・・。これはフォイゾン王に合わす顔がない。ダンバインはどこへ行ってしまったんだと悩む面々。
 一方の地上界。再度の親子の対面なんだけど・・・。息子の立場を理解しようとせず、銃の引き金さえ引いてしまう母親。「こんな子どもがいやなら、撃ってくれていい、殺してくれていいんだ!」ってショウ?「あまりにも身勝手じゃないか!」と並立して、そういう言葉が出ることの不思議さを思います。うわぁー、富野アニメではお馴染みの母子の断絶ですけど、これはまた一段とむごいや!
 「聞こえるか、俺はカシオペア座の第28惑星系の人間だ!あの人たちはまったく関係ない。」親を気遣って、いっそ宇宙人を演じてみせるショウ。(口からでまかせ、面白すぎ!)
 「地上はイヤだ、バイストンウェルで闘おう!」ってガラリアに呼びかけますけど、その「イヤ」ってのはかなり本心から出て言っていることのように聞こえました。ようやくガラリアと力を合わせてオーラロードを開こうとするんですが…。「バイストンウェルが見えた!」瞬間にオーラ力に耐え切れず、閃光を残してバストールは四散してしまいました(!)。

 うーん、バイストンウェルに戻り損ねてしまった。これは予想外の展開。次回、いったいどうやってショウはバイストンウェルへ帰るんだろう。無理やり連れて来られたんじゃなく、今度はつくづく地上界がイヤで、バイストンウェルこそ自分の生きる場所だと思っているっていうのがポイントかな。
 親との紐帯を自ら断って、自分の世界を求めるというのは、少年が大人になるための儀式のようなものですよね。ただ、現実社会を嫌って、「おとぎ話」にしか見えない世界に行き場を求めるというのはどうなんだろう、というところが。特に、この数回の物語でショウが見た地上界の姿は、あまりに現代社会への嫌悪感丸出しに痛すぎる。(ところが一方、物語の舞台から去ってしまいましたけど、ガラリアが幻視したものには、その反対のものも少なくなかった気がしますね。そこが不思議。)
 地上界とバイストンウェルは、背中合わせの世界だということが、どうやら話の肝になってくるような気がしますが。――「ゲタをはくまで分からない」ってのは、こういうのを言うんでしょうか。


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∀ガンダムは「開き直りの現状肯定」ではない。 

[2007/02/11] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(0) | TOP ▲

 こう鮮やかにやられると、「ぐう」の音も出ないという感じです。まあ、とにかく必読です。

→ PSB1981の日記 - 母は全てを奪う(∀ガンダム/富野由悠季)

∀ガンダムとは何だったのか、といえば全てを許し肯定する母性に包まれて「死と再生」を繰り返しながら、歴史を紡いでゆく人類の物語だ。

 「囚人さんのブログ内に∀ガンダムそのものの記事が意外と少なかった」という指摘をいただいて、痛いところを衝かれたなぁと思っていたところでした。psb1981さんの洞察のとおり、「完成度が高く隙が無いので作品全体に緊張感がある」ので、ターンエーには手が出ない気がしてたんですよ。そしたら、完成度が高く隙が無い記事を読ませていただいて。思わず唸ってしまいました。そして[カテジナ日記]の流れの中で書いてこられたのにも、意表を衝かれました。

ちなみに∀ガンダムのお気に入りキャラはギム・ギンガナム御大将は当然として、ソシエ・ハイムですね。ソシエ=カテジナ=クェス(=カミーユ)。富野作品に出てくる、あのイライラしたティーンエージャーが大好きなんですよ。
PSB1981の日記 - だらだら更新、∀ガンダムとか

・・・という予告を目にしていながら、「ソシエ=カテジナ」という視線があり得たのか、と改めて驚かされました。

特に怖いのがキエル・ハイム。彼女の母親であるハイム夫人も怖い人でしたから、そういう家系なんでしょう。妹のソシエはあまり怖くありません。
PSB1981の日記 - 本当は怖い∀ガンダム)

・・・とも書いておられましたね。キエルが怖くてソシエが怖くないということは、カテジナさんは怖くなくて、本当に怖いのはシャクティだったりするんでしょうか。うーむ…。でも何となく分かるような気もします。(笑)

 「“死と再生”を繰り返しながら、歴史をつむいでゆく」というのは、言葉を変えて言うと“輪廻”なのではないかと思います。ぬるい私は未入手なのですが、ターンエー制作の前年に当たる1998年に出版された『イデオンという伝説』には、「“リング・オブ・イデオン”は無理だから“リング・オブ・ガンダム”という名称でイデオンみたいな輪廻の物語をやりたい」という主旨の富野発言が載っていると聞いて、読みたいなぁと思っていたところでした。(→ ヒゲカーニバル別館・不定期日記 「イデオン」と「ターンエー」
 イデオンにまで話が繋がると私は個人的に嬉しいのですが(笑)、“死と再生の繰り返し”を輪廻と読むと、東洋的な思想だと感じます。

文明の後退した父性なき地上で(ある意味幼いまま)生きる人々を肯定的に描いた∀ガンダムはある意味、開き直りの現状肯定ギリギリ一歩手前だ。

 ここがポイントですよね!

 (h-nishinomaruさんも繰り返し強調していましたが、)先ごろのメディア芸術祭シンポジウムでの発言を見ても、富野さんの原点にはアメリカへの屈折した思いがあった気がします。

僕がこの仕事につくことができたのは『鉄腕アトム』というマンガです。まだ戦争に負けた空気感の漂うなかで読んだこのマンガのアメリカナイズした素晴らしさ、それを日本人が描けてるというのは本当にカルチャーショックでした。
日本の表現力 イベントレポート・シンポジウム メディア芸術って何?

 ただ、それは一人、富野由悠季という人だけの問題ではないんじゃないかと思うのですね。文明は無限に進歩し続けるというのは、日本人がイメージするところのアメリカ的合理主義の思想のような気がします。(アメリカ人全部がそうではないでしょう。しかし先進国といわれる国では、現代人の多くがそう信じているものだという気はします。)

 母系社会というのは、農耕民族に多いんだそうです。母なる自然に抱かれるというイメージは、非西欧的な感じがしますよね。そういう思想的な変遷があるんだろうと私は思うんですよ。(その間に激しい葛藤もあったんだろうと。)

刻が未来へすすむと 誰がきめたんだ
(『ターンAターン』 作詞:井荻麟=富野由悠季)

・・・というのは、驚くべき“開き直り”ではあるかもしれませんが、“現状肯定”とは違うんじゃないでしょうか?文明が無限に進歩すると信じられ始めた産業革命の時代への、あり得ないリセットをしてみせるという荒技には、心底しびれます。ターンエーの冒頭では、これこそアニメならではの夢幻譚のような気がして感銘を受けました。

 母性の象徴であるディアナもまた一人の人間に過ぎなかったこと。ベタに言うと地球の自然を母とみなせば、「母は全てを奪う」以前に、全てを与えたのもまた母でした。ソシエに限らず、誰一人として「母の呪縛」からは逃れられずに循環し続けているのでしょうかね。
 東洋的な思想系では、死というのは母なる自然に還ることのようですね。・・・と言いながら、私も∀ガンダムのラストシーンは背筋が「ぞくぞくぞくーっ…」としました。今思えば、あれは怖かったんだと思います。うまく言えませんが、そのぐらいの衝撃作だったということです。

 ビルドゥングスロマン(自己形成の物語)は、少年が一人前の大人になるやり方(「いかに生くべきか」)は教えてくれるかもしれないけれど、一人前の大人は最後に「どう死を迎えるべきか」を考えなければならない。もしかすると、私は『∀ガンダム』のラストシーンで、そういう未知の(or 忘れてしまっていた、けれど最も重要な)問題を突きつけられていたのかもしれないですね。
 「教養は常に教養主義批判というかたちでしか存在しない」(by 柄谷行人でしたっけ?)というのは、こういう場合に使う言葉でしょうか(笑)。

Ζガンダム以降、キングゲイナーまで「少年が大人の導きで男になる」というビルドゥングスロマンを、正当に描くことに失敗し続けている
(さて次の企画は - Ζガンダム劇場版で見る富野と宮崎の教育観の違い)

・・・という富野批判に反駁する言葉を、psb1981さんのおかげで、私もようやく見つけることができたような気がします。いいものを読ませていただいて、ありがとうございました。


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コードギアス stage13『シャーリーと銃口』 

[2007/01/19] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

行動の果てには結果という答が待っている。例外はない。そこにルルーシュの力は及ばない。いかなる相手にでも命令を下せる絶対遵守の力を持っていようと、その必然からは逃れられない。母の仇を討つために、妹ナナリーが幸せに過ごせる場所を作るために動き出したルルーシュ。だがしかし、世界は、人々は、彼の思惑とは別に結果を突きつけ、その続きを求めてくる。その続きが世界をつむいでいくというのなら、誰かが背負うべき罪は、受けるべき罰は、一体どこにあるというのだろう。


 ははは、作品のナレーションが、ここまで作品それ自身を批評してみせるんだ!
 いやぁー、しかしこれは面白くなってきましたねぇ、『コードギアス 反逆のルルーシュ』!!(・・・と、ちょっと意地悪に言ってみる。)
 ネットでは、新しい主題歌がやけに不評を集めていたようだったけど、本当にそれだけなんだろうか?ここまでアドバンテージを稼いでおいて、依存癖を付けさせてしまっておいてから、「さぁ、これからだよ。キミたち、付いてこれるかい?」みたいに挑戦的な手つきを見せてみた、そんな回なのかな、と勘ぐってみたりなんかしちゃったり。谷口監督=ゼロで、熱烈なファンたちは黒の騎士団という図式?(笑)
 抵抗感があったのは、本当に主題歌だけでしたか?(たしかに今までの流れからは、違和感あると言えばありましたが。)

まあアニメ向き、それもアニヲタのストライクゾーンど真ん中を狙って投げてる作品の歌じゃないわな。
『忘却界抄:コードギアスあれこれ』


・・・なるほど納得、今回のはけっこう“魔送球”(←古すぎ)。
 いや、まさか、主題歌を変えたこのタイミングにかつてなく、えげつない苦味を醸し出してみせたのは、あの歌を今回の“日本解放戦線”よろしく捨て駒にしたというわけではないんでしょうが。(・・・と、またも毒のある物言いをちょっとしてみたくなっちゃったり。)
 「なにかこう、スタッフはコードギアスをある種の層が素直に楽しめないように作っているのではないか、という気がするんだよね」、「みんなこういうの好きだよな。私も好きだ。」と“そいれん”さんは仰っています。うーん、私、ズバリ「ある種の層」っぽいです。ハイ。
 だからね、“素直”じゃなく、楽しんでいます。そうですねぇ、思いがけず私も意外と好きらしいです、こういうの。
 「間違ったやり方で得た結果なんて、意味はないのに」(スザク)で、シャーリーがハッとして一瞬、唇がアップ。あー、そういう意味ね。(だけどその状況で、恋愛の話ねぇ…。)
 「せがまれるままにキスして」って、C.Cの前ではルル君にはプライバシーってないの?「童貞坊やか」でベッドに押し倒して、シャワーって、思わせぶりだけど本当はやっぱ違うよってそういう流れ?(くっくっくっ、・・・考え過ぎ?)
 「ロイドさん、人との付き合い方、教えてあげましょうか」とか言いながらセシルちゃんが持ってきたのはまたお握りでしたね(つまりジャム入り?)。おー、水陸両用ナイトメア?「私は、もう同じ失敗を繰り返すわけにはいかないのだ」(C.C)は次回の伏線ね。手堅く各方面にサービス、サービスゥ!
 「ゼロ、これも一つの結果だ」(スザク)って、今回はやたらと「結果」という言葉にこだわったシナリオ。・・・と、言ったってなぁ。ナイトメア戦は毎度のことながら、常に「新型>旧式」で性能差が圧倒的過ぎて、私にはあんまり面白くないです。

ルル君のそもそもの動機も私怨なんだからそこが彼の弱さとして機能してしまうのも当然なんだよね。自分のやったことが自分にはね返ってしまうって意味でね。
トボフアンカル・ミニ・メディア(T:M:M) - コードギアス 13話


 母の仇討ちのため、妹のために、お父ちゃんを乗り越えて少年は大人になっていくわけですもんねぇ。まだまだそういう段階じゃないんだろうけど、成長物語(ビルドゥングスロマン)としてのコードギアスって、どうなのよって、今後だんだん語られていくんでしょうか。(善良な市民さんがちらっとそれに触れかけてましたね。
 エヴァンゲリオンと対比して、 「ぼくは何も傷つけたくない/何にも傷つけられたくないから何もしたくない」意思とは裏腹に、何かを強要される話だったエヴァに対し、コードギアスは「ぼくはあれを傷つけたい/あれに傷つけられてもかまわない」と主体的に肩肘張る話だという視点(BLUE ON BLUE(XPD SIDE):ぼくの無力と気力)も私には面白いものでした。

「こうでなければ!」
「ふっ、やはりゼロはすばらしき素材、カオスの権化だ。もっと、もっと見せてくれ私に、あなたの主観に充ちた世界を!」


 ぬははははは。ディートハルト君でしたっけ?愉快愉快、いたく同感なり(←毒)(笑)。


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自己形成の難しさ 

[2006/09/05] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

PSB1981の日記 - カテジナ日記/第四話「戦いは誰のために」(Vガンダム/富野由悠季)

 先日から、時々コメントをいただいているpsb1981さんのブログで「カテジナ日記」というおもしろい連載が展開中です。第四話はさすがにカテジナさん個人ネタからは離れたようにも見えますが、とても興味深い内容なので、ご紹介しておきます。

Vガンダムというのはビルドゥングスロマン(成長物語)の明確な否定からスタートしている。
なぜなら、過去のガンダムシリーズにおける主人公の成長というのは、結局は立派な「軍人」になることでしかなかったからだ。ガンダムに乗りつつ、社会的自己実現を図り、同時に大人の責任を果たすというのは実際そういうことだろう。

このVガンダムにおいて、ウッソがガンダムに搭乗する理由は最初から最後まで変化が無い。彼は最後までプロの軍人にならないし、同時に大人にもならないのだ。

 ビルドゥングスロマンという言葉には、ヤバいので気を付けねばならないところがあり、それは、<それが近代的な国民意識の芽生えるのが遅れたドイツで育まれたものだ>ということだと聞いたような気がします。

ドイツでこのような小説が支配的となったのは、近代の国民的形成が遅れたことによる。つまり、精神的に自己形成し社会的な発展をとげる物語の主人公は、一人の人間であると共に、何よりもドイツ人であるということである。
教養小説 - Wikipedia

 要するに、一人前の大人=すなわち“よき国民”になってしまう危険性は、常に意識に置いておくべきなようですね。

PSB1981の日記 - カテジナ日記/第五話「ゴッゾーラの反撃」(Vガンダム/富野由悠季)

しかし、カテジナが抱えるこの10代特有の苛立ちは過去のガンダムシリーズの主人公にも共通していたはずだし、カミーユなどは、これによってこそ、Zガンダムを駆ったのではなかったか。
そういう意味では、素直すぎるウッソよりもカテジナの方が、過去の主人公たちにより近いといえると思う。
そして実際、このVガンダムという物語の中で、ビルドゥングスロマンの階段を駆け上がるのは、ウッソではなく、むしろカテジナの方だ。

 カテジナさんは潔癖で、自分が正しいと信じたことを、信じたままに貫いている。その自己形成の過程のどこがどう間違ってしまったのか、私にはよく分からないんだけど、やがてそれが「おかしいですよ!」と言われねばならなくなっていく、そういう物語だってことですよね。
 このVガンダムという話には、たしかに「潔癖では駄目だ」という描写が繰り返し出てきます。…難しいですね? 頭だけ、理屈だけで考えてする自己形成は、結局誰かに教えられたようなものにしかならないのか。そういうことの答は、ブレンパワードまで待たねばならないような気がします。

 一話ずつたどっていらっしゃるのに、先走ってみせてすみません。

 続きをとても楽しみにしています!

ビューティフルドリーマーとは懐かしい・・・ 

[2006/07/27] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 たまには珍しく、時事ネタにも触れてみたいと思います。

 はじめに断っておかないといけないのは、最近大人気のアニメらしい『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、わが住まいなす辺境の地では放映しておりませんで、(それでもこれだけネット界隈で騒がれているから気にはなるし、その気になれば見る方法もいくらもあるんでしょうが、)これまで積極的に「見たい」と私は思ったことがなかったということです。なので、ハルヒという作品は未見なんですが、それを踏まえた上で、ネット上でやり取りされているいろんな意見に対し、ちょっと思ったことを書き留めておきます。

 見たことがない作品について、いろんな人がアツク語り合っているのをウォッチングするのもけっこう面白いものです。『エヴァンゲリオン』以後、アニメオタクの周辺では誰もが話題を共有して語り合える基準作というものがなくて、それが激しく希求されている中で、「このハルヒこそがそれになり得る」「いやなり得ない」、そういう激論は、今日のアニメに人々が求めているものは何かというようなテーマを観察できるいい機会でした。(なまじ見てしまっていると自分の好き嫌いや思い入れが入るんですけど、幸か不幸か見てないおかげで、比較的それが少なかったりもします。)

Anisopter 惑星の人たちが語らなかったこと

 これは第二次惑星開発委員会 涼宮ハルヒの憂鬱 - 善良な市民×成馬01×キクチへの反論(?)として書かれているんですけど、いつものシニカルなオタク批判のパフォーマンスだよと言いながら、ネタとしてスルーせずにベタな言及をしてるのが興味深かったです。(私の書くものなどはスマートさのかけらもなく常にベタベタですから、「あ、世の中そういうものなのか」と感心さえしました。)

 このハルヒをめぐる話で私が面白いなあと思っているのが、「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー(BD)」「エヴァンゲリオン」「ハルヒ」という三点セットで語られることが多いところで、私なんかはBDも直撃世代なんで、「へぇ~」と感じることが多々あります。
 エヴァを見て、ふに落ちなかったことが、いろんな語り部の口によってBDから語り起こして今日の状況までつなげてくれると、「あー、エヴァってそういう位置づけなんだ」とようやく分かってきたりとか。

 で、オタクは現実社会からアニメに逃走してると。大塚英志いわく、「エヴァはビルドゥングスロマンの不可能性を描ききった」のに、「エヴァンゲリオン」の結論からおたくたちは尚も逃走しているのだと。

僕がここで注目したいのは、彼らが大塚英志の身振りをどれほど反復しているように見えても、彼らがもはや「健全なビルドゥングスロマン」みたいなものをもはやポジティブには語ら(れ)ないということだ。その空虚さを埋めるかのように、彼らは今なおハルヒの物語に耽溺しているオタクたちを批判する。

 なるほどねぇ。「こんな日常はつまらない。自分は非日常的なロマンでないと充足できない」のだと無理矢理自分に言い聞かせているハルヒ(=オタク)というのは、実際には、「妥当な自己像に修正して素直になりさえすれば、非日常的なロマンなんてまったく必要としないタイプの人間なのだ。そしてそれは、決して不幸なことではない。」という善良な市民さんのまとめは、健全なビルドゥングスロマンをポジティブに語ってはいないと?
 ビルドゥングス=自己形成だから、多少シニカルな言い方ではあっても善良な市民さんは、まさしくそれについて語ってはいると私は思います。ただ私にとって引っかかる点があるとすれば、「妥当な自己像」「素直になりさえすれば」というのが、『星の鼓動は愛』のクロスレビューの時にはこの方が痛烈に批判していた、「安易な自己肯定と思考停止」とどう違うのかを、もう少し語って欲しかったというところです。

 それはさておき、この批判でとりわけ興味深かった視点は、次のところです。

僕たちがBD、エヴァ、ハルヒの物語に「あたる→シンジ→キョン」の「逃走→他者との出会い→歩み寄り」といった単純な主体の変容というまた別の「物語」を読み込んでしまうとき、押井守がなぜ「現実」への回帰を志向しつつ、即座にその試みを打ち消してしまうような反復を描かなくてはならなかったのかという問いかけが忘れさられてしまう。

 「押井守がなぜ」という問いかけへの解説も書かれてはいるのですが、オタク批判というアイロニーも分かる俺たち(=オタク共同体)という指摘だけでは結局、最初のBDで示された迷宮構造から抜け出る手がかりにはなっていないような。(結局われわれは巡り巡って、また「終わらない学園祭前夜」のふりだしにいるという再確認ですね。)
 考えなしに消費行動の享楽にふける「動物」であるか、それを批判する「シニシスト」であるかが「単にポジションの差にすぎない」という指摘も、BDのテーマの再確認としてですが、今日的な言い回しとして面白いもので、「僕たちはそろそろこのディスコミュニケーションを乗り越える言葉について考えはじめなくてはならない」というメッセージは共感できるものです。

 「メタ萌えもの」という長すぎた夏休みは「今、内部から自壊しはじめている」という善良な市民さんの結論をはじめに読んだときには、そうかなぁ、どうだろうかと思いながら読んだのですが、こういうメッセージが出てくるのだから、そうした兆しは確かにあるのだなぁと、ある意味感心しました。

 ところでこういう中にあって、私の立ち位置はどこなんだろうかと改めて考えてみると、なるべき時期に「おたく」になり損ねた私というのは、皆が現実から上手に逃走していたときに、逃げ遅れて現実につかまってしまった存在ってだけなのかもしれないなぁと。
 BDを、当時の私は大いに楽しんでみましたけど、私の学園祭は前夜を繰り返すことなく普通に始まってしまい、そしてたぶん、もう終わってしまいましたよ(笑)。
 だけど自分が思うようなビルドゥングは成し遂げられていないから、現実に追い回されながらも、相変わらずロマン(?)を求めてアニメ界隈をうろうろしているような気がします。なので、私にとっては「安易な自己肯定と思考停止」と批判されているもののほうが、気になってならないのかもしれないですね。

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