スポンサーサイト 

[--/--/--] | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | TOP ▲

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

何度でも観ましょう!『リング・オブ・ガンダム』 9月21日まで! 

[2009/09/13] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 富野由悠季監督の待望の新作フィルムであるから。たとえ5分ほどの予告編めいた短編であっても、この目にできることはうれしいし、何度も繰り返して観てしまっています。

 音楽のことはよく分からないなりに菅野よう子の音楽が凄いなと思ってましたが、繰り返し聞いているうち、冒頭から最後まで、ほぼ完全にひとつの曲として通っている感じがしてきました。これ、音楽だけのバージョンっていうのも聴いてみたいぐらい。
 っていうか、ドラマの盛り上がりと曲調の盛り上がりが本当に見事にシンクロしていて、絵があって曲を作ったのか、曲にあわせて絵を作ったのか、そんなことも不思議に思ったり。

 主人公エイジィを演じている(3DCGのモデルでもある)川岡大次郎さんは『仮面ライダーディケイド』なんかにも出ている役者さんらしいです。イケメンライダーですな。w

次世代の新機軸ガンダム「Ring of GUNUDAM」のキャラクターの声と動きを演じてます。 僕とほぼ同い年のガンダム。 俳優として、今、こういう形で、ガンダムに関わる事ができて光栄です。

 ヒロインのユリアを演じている平田裕香さんは『獣拳戦隊ゲキレンジャー』で、悪のヒロインを演じられたそうです。画像検索をするとびっくり(笑)しますが、グラビアアイドルとしても活躍中だそうです。

ガンダム 30周年記念作品【リング オブ ガンダム】 に関わらせていただきました☆ あのガンダムの生みの親、富野由悠季原作・総監督で、 音楽は大好きな菅野ようこさん。 その他にも、豪華スタッフ陣

リングオブガンダム、 ただいまインターネットで公開されているんですってよ! 短い時間だけど、すんごい世界観があって、想像を膨らませるとどこまでも広がっていきます。 見てみてくださいな☆

 ふふふ(笑)、芸能人の方のブログなんて、初めて読ませていただきましたよ。

 あと、私はアニメファンなんですけど、声優さんにはちっとも詳しくないので、ビューティメモリーの声を演じられた小清水亜美さんが、『エウレカセブン』のアネモネちゃんで、『コードギアス』の紅月カレンで、『狼と香辛料』のホロだと知って、ビックリしちゃいました。(無知でゴメンなさい!)

 サウンド面では、富野監督も「天才」とシャッポを脱ぐ菅野さんの音楽が、もうそれだけで世界観を作っていて。そこへ物語が乗っかっていくというか、絡んでいくというか、拮抗しようと立ち上がってくるというか。いわゆる「富野節」というのも、耳から入ってきたときの音の切れとかリズムとか、そういうものでもありますし。
 流れがギクシャクしていると地の文でベタベタに説明しないと表現は伝わらないんですが、「本線の情」にすーっと乗っていれば、むしろテンポが重要なんだと思います。「予告編」ではなく短編アニメーションと考えれば、当然のように内容は象徴的なものになりますし。(まあ『ガンダム』と思って見に行ったらアートアニメーション的なものであれば、戸惑うこともあるでしょうけど。)

続きを読む
スポンサーサイト

『機動戦士Zガンダム』 第38話 「レコアの気配」 

[2009/05/07] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 先日買ってきた『機動戦士Zガンダム』の小説版を早く読みたいんだけど、いちおう以前に自分で「テレビ版の再見を終わってから」とハードルを設けてしまったので、まだ読めないのでありました。

機動戦士Z(ゼータ)ガンダム〈第5部〉戻るべき処 (角川文庫)

 しかし、目の前に人参をぶら下げる必要が?

 なくもないですね。でもつまらないものを我慢して見ているわけではありません。面白いんです。面白いんですけど、しんどいんです。そんな感じ。

 ついに38話。二回目の地球降下からカミーユとシャアが宇宙に戻り、いよいよ終盤の物語に向かっていこうというところ。この回では地上篇の前半から宇宙篇の後半までを、ひとつのエピソードの中で切れ目なく繋いでいっています。『ZZ』の製作決定で後半全体が引き延ばされていますから、このままラストアクションに入っていかないところはシリーズとしてはテンポが悪いんですけど、一話一話が間延びした感じになることはないのは、さすがです。

 のっけからカミーユへの怨念に凝り固まっているジェリドが出てきますけど、個人レベルの小さな勝負にこだわってるだけの、こんなつまらん男では、もうカミーユのライバルというポジションは保てない。冷徹ですね。

 二話前の『永遠のフォウ』ラストで、もうクワトロ大尉とは呼ばない、と突っ張っていたカミーユなんですが、やっぱり「シャア」とは言いにくいし、この回で案外あっさりと妥協。何か微妙な距離感で、それでもシャアについて行くって感じかな?
 この緊迫した場面で(宇宙で会うはずの)カツへの伝言はないかとハヤトに尋ねるカミーユは、いろいろ気配りの出来る優しい少年。ハヤトの「生きていてくれれば」というセリフは、後のことを考えると切ないです。カミーユは気配りのできる子だから、こういうのも記憶のどこかに残っていて、一人一人の死を重く受け止めずにいられなかったのかもしれないなー。

クワトロ 「一昔前の人々は、この何倍ものGに耐えながら宇宙に出た」
カミーユ 「知っています」
クワトロ 「彼らは宇宙にこそ希望の大地があると信じた。自分達を宇宙に追いやった地球のエリート達を憎むことより、その方がよほど建設的だと考えたからだ。地球の重力を振り切った時、人は新たなセンスを身に付けた。それが、ニュータイプの開花へと繋がった。そういう意味では、確かに宇宙に希望はあったのだ」
カミーユ 「よくわかる話です。僕もその希望を見つけます。それが今、僕がやらなくちゃいけない事なんです。(・・・そうしなければ、フォウはオレの中に生き残ってはくれない。)」

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 ハンナ・アレントの『人間の条件』という本を読んだとき、その「プロローグ」で、あ、これが“ニュータイプ”のイメージの源だな、と直感しました。
 「公共性」について述べられているこの本は1958年(!)に刊行されていますが、その書き出しは、前年のスプートニク(最初の人工衛星)打ち上げのことから始まっているんです。

「地球に縛りつけられている人間がようやく地球から脱出する第一歩」というこの発言が陳腐だからといって、本当はそれがどんなに異常なものなのかを見逃してはならない。というのは、なるほどキリスト教徒はこの地上を涙の谷間といい、哲学者は人間の肉体を精神や魂の囚人として眺めてきたけれども、人類の歴史の中でいまだかつて、人々が本気になって、地球は人間の肉体にとって牢獄であると考え、文字通り地球から月に行きたいとこれほど熱中したことはなかったからである。

 「地球は人間の条件の本体そのもの」ですが、その条件から脱出したいという望みを人間は持つ。こうした「与えられたままの人間存在にたいする反抗」についての判断を、職業的科学者や職業的政治屋だけに委ねることはできない。この「プロローグ」でアレントは、生命のあり方や労働のあり方などの「現代的な不安」を例示していますが、彼女はそれに対して「解答を与えようとするものではない」とし、「人間の条件を再検討すること」をこの本で試みています。
 「空想科学小説」について、「それは大衆の感情と大衆の欲望を伝える媒体として注目に値するものであるが、残念なことにこれまでそのような注意を払った者はだれもいない」とも述べています。とても難しい本ですが、非常に興味深い内容です。

 「そういう意味では、確かに宇宙に希望はあった」とシャアは言い、それにカミーユは「よく分かる」と。地球の重力(つまり人間の条件)を振り切る希望に僕は生きるんだ、と熱っぽく同意しちゃってます。

「本当に排除しなければならないのは、地球の重力に魂を引かれた人間たちだろ!」

「排除しなければならないのは、地球の重さと大きさを想像できないあなたたちです!」

 ちょっと先走って最終話の話題になっちゃいますが、『機動戦士Zガンダム』のテレビ版と劇場版で、最も顕著な相違点を示している上記のカミーユのセリフの変更は、この38話でのシャアとの距離感の取り方で既に決まっちゃってるところもあるような気がします。
 ガンダムみたいな“巨大ロボットアニメ”なんて、大衆の感情と欲望にまみれた「きわめて尊敬すべからざるもの」だったんでしょうが、富野由悠季はそういうところでこそ「人間の条件」を再検討していたような気がします。

 しかし、フォウの死をまだ引きずっているところへダカール演説の高揚感も重なって、しかもシャアの操縦しているシャトルに自分の命を預けているという絶妙のタイミングでこういうふうに“オルグ”されちゃったら、カミーユがシャアから自立した独自の視座を持つことは難しいでしょうね。つくづくテレビ版のストーリーテリングは残酷です。

続きを読む

世代というのも人間の業ですか 

[2006/12/14] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 さきごろ富野監督の思索の展開に思うことを書いたところですが、この話がそのまま先日来コメントいただいている内容にも繋がっているような気がするので、少し話を続けてみようと思います。
 個人とは不特定多数の個人ではなく英雄のような存在を指し、「ロマン主義とは英雄主義といいかえてもよいのではないですか」というnishinomaruさんのコメントのおかげで、以前に気になって取り上げたとくもとさんのコメント――「ロマン主義(個人の決断が歴史をも動かす)はニュータイプに替わりえる強力な私と我々を結ぶ思考です」という意見についての論点が、私にも少し分かった気がしました。
 英雄主義というのは、エリート論ではないかと思います。…と言ってしまうと、(私もどっぷりとその中に浸かって育った)戦後民主主義的には語弊があるようですが、きちんと検討すべき課題だと思います。と言うよりも、むしろエリート論というのはガンダムの世界では、ほぼそのままニュータイプ論だと思われますが、そこはどうでしょうか。「シャアは英雄になり損ねたキャラ」とは、そのまま“ニュータイプのなり損ない”と重ならないでしょうか。
 つまりニュータイプ(=英雄=エリート)になったからといって、「生命を持たない意識体としての存在」にでもならなけりゃ、生身のままでは世界なんか救えやしないと富野監督がやってきたこと(→関連記事)が、能力を身に着けて人々を導こうとする英雄になろうとする向上心を「さんざん愚弄してきた」のではないかという批判なのでしょうか。
 これは教養とかビルドゥングスロマンについての話でもあるのかもしれないですね。以前に「向上心」考(生きて戸惑い動揺する教養) という記事を書いてみたことがあります。「社会全体が頭打ちな現況の中で、人を差し置いても自分(だけ)は向上したい、という願いはしばしば壁に突き当たります」と私は記しましたが、ここに書いたことを裏返すと、戸惑い動揺したところで終わったのでは、微温的な現状肯定という批判をかわすことが出来ない、いかに未来が見えなくとも「絶望もしちゃいない!!」(アムロ)と言わなきゃならないということでしょうか。
 こうしたアムロの物語は立派な英雄譚ではなかったかと思いながら、では例えば「エヴァが反戦映画である、ということを見落とす観客の責任の方が圧倒的に重いと思います」と断言されたnishinomaruさんのように、確信を持って言い切れるかというと自信を持ちきれないわけです。

いまや特撮やアニメは世代にかかわらずDVD化されネット配信されるボーダレスな時代である。したがって世代論だけでは論じられないと思うのだ。
いつのころから新発売: ボクのオタク論


 私は時代の中での変遷を見たいと思ったわけですが、上の記事を読んで私が思ったのは、そうしたものに捉われておろおろするよりも、そんなものはいっそ無視して、間断なく現在の視座から斬りなおし、その都度評価は改めていかねばならないというnishinomaruさんの徹底した意思でした。
 それは正しい(そうあるべき)考え方だと思います。現在のオタクの状況から逆算すると、オタクの定義の変化についての分析も説得力があります。
 それでもなお、たとえば物語を「他人の不幸は蜜の味」という暗い楽しみとして捉えるような、今日的な感覚というものには、私はどうしても馴染めそうもない気がするんです。
 困ったなぁ。世代というのも人間の業とかエゴとか、そういう乗り越えがたいものの一つだと自覚すべきなんでしょうかね。


| ランキングオンライン |

富野監督の思索の展開に思うこと 

[2006/12/12] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(0) | TOP ▲

 昨日は挫折してしまいましたが、今日こそは書いてみたいと思います。(笑)
 yasuakiさんの書かれた「∀ガンダム論 第一章 ガンダムシリーズとニュータイプ論の結論としてのディアナの死」の、冒頭に記された次の一文を読んだだけで、私はその内容に心惹かれるものを感じました。

ガンダムとニュータイプの歴史とは、ある面で、人類がいかにしてエゴを乗り越えるかという歴史であったということができる。


 先日、藤津亮太さんの“「われわれ」と「ぼく」と「ニュータイプ」”という記事を読んだとき、「われわれ」(社会)と「ぼく」(個人)の間に齟齬が生じ始めた時代が生みだしたものが「ニュータイプ」という捉え方に、その両者に引き裂かれた世代だからこそ、私はそれに惹かれたのだろうなと思いました(→関連記事)。「われわれ」と「ぼく」の間の齟齬、それを端的に言ったものが「いかにしてエゴを乗り越えるか」の問題だと思います。
 yasuakiさんは、『逆襲のシャア』→『Zガンダム』→『Vガンダム』→『∀ガンダム』というガンダムシリーズの作品展開の中での富野監督の考え方の変遷をたどってみせてくれています。これで論旨は明快なのですが、ただ『逆襲のシャア』(1988年)→『Zガンダム』(1985年)という逆順になっているところで、多くの読者は戸惑うんじゃないかとも思いました。その点については、『逆襲のシャア』は小説版の『機動戦士ガンダム』(1981年)の結論をアニメでやり直してみせたのではないかという私の私見(→関連記事)も関係あるような気が個人的にしました。
 yasuakiさんはなるべく分かりやすく整理してみせてくれているわけですが、そういう風に実際の表現の中では、富野監督の思索の変遷は、錯綜しながら現れています。(作品の中においても、発言の中においても。)決してなだらかな一本道ではなく、そこには紆余曲折があります。理路整然としたものでなく、ときに以前の発言との激しい矛盾を生じたりしている。トミノスキー(笑)の私には、それこそ監督の思索の真摯さと映るのですが、そこは意見の分かれるところでしょうね。
 「われわれ」の時代から、「ぼく」の時代へという移り変わりと、もう一つ、重要な時代の変化があります。それが「未来に対しての期待観」だと思います。
 私の少年時代(というのは1970年代になりますが)、公害問題なんかも噴出し始めていたはずなんですが高度成長の夢はまだまだ人々の間で信じられていて、21世紀はすばらしい科学文明の時代になっているはずだと思われていました。'60~'70年代のSF映画や漫画、アニメなどに描かれている21世紀像を見てみてくださいよ。すごい夢と希望の世界ですから! 私なんか、そんなのを見せられて育っちゃったんですよ。で、…実際に訪れてみた21世紀の、何たる夢も希望もないことか!(笑)
 その点では、人間(社会と個人の関係)の観察については、たぶん先見の明があった富野監督も、宇宙開発に憧れて育った少年の一人として、科学の可能性への幻想を拭い去るのには人並みに時間がかかったと言えるかもしれないですね。
 そういう二つの時代の大きな流れの間に、たまたま生じた空隙のようなところから見出されたものが“ニュータイプ”というもののような気がします。ただそれが私の世代の少年たちには、(未来への希望が揺らぎ始めた時代を迎えつつあったからこそ、)かえって電撃的に受け入れられて、観念として一人歩きをはじめてしまったような。
 富野監督の真摯なところであり、また不器用なところと言うべきは、その間違いに気付きながらも、制作者として責任を負わねばならないと考えて、yasuakiさんのまとめられたような思索の追究を愚直に続けたところにあるような気がします。


| ランキングオンライン |

全能感とは?~『コードギアス』stage7 

[2006/11/25] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 ネット配信で『コードギアス 反逆のルルーシュ』を(ほぼ一週遅れで)見ているんですけど、こまごました感想を書き留めることは、別にいいかなぁという気がだんだんしてきました。各回のあらすじや良質な感想などは、たとえばこちら、「球根栽培法」のCategorie「コードギアス」などを拝見すると、とても充実していると思います。なので、これをもっけの幸いとして、自分の関心あることだけをメモしておくほうがいいということに、ようやく思い至ったという次第。
 今のところ、私のこの作品に対する関心というのは、先の記事にのりのりさんからいただいたコメントに記されているような、“全能感”に関することが最も大きいように思っています。その視点から“SEED”に比べると、設定としての“ギアス”の全能感というのはかなり制限されていて、この作品の全能感に関する部分では、もっぱらルルーシュ君のキャラクター(まさに“若者の特権”なのかあるいは“身の程知らずのたわごと”なのか)に依拠するところが大きいと思います。与えられた能力を、どう使いこなすかということでしょうかね。
 stage7『コーネリアを撃て』は、そういうルルーシュの思い上がりから一敗地にまみれるエピソードだったわけなんですが、まだまだ序盤であって爽快感もなかった代わりに絶望感も微塵もない。あったのは、辛くも死地を脱したルルーシュ君の苦い屈辱感だけだったような。
 “ニュータイプ”と“ギアス”を比べてみると、ギアスが人を支配する能力であることに対し、ニュータイプは世界を洞察する力、ないし超能力的な描かれ方をした面を含めても、人に意思を伝達する能力として描かれていたと思います。この差はかなり大きいと感じます。
 『反逆のルルーシュ』という物語の中で、ギアスの力というのはゲームを構成するために不可欠なキーとなる要素(たぶん“デスノート”とかと同様)に用いられているんだと思いますけど、物語の描き手も、こんなものだけで世界が変えられるとはあんまり思っていないっぽいですよね。

個人がどんなに努力しようが真剣に考えようが行動しようが、早々世界は変わらないという絶望を抜きに、現代を語ることはできないと思うので。(zsphereさんのコメント)


現代人が口で言う絶望なんてたいした絶望ではないのではないかと思うときがあります。絶望を口にしながら、のんきに生きてる奴は多いし。
怖いのは、その緩い絶望で本当に死にいたるものがいることや、逆にそののんきさが本当に取り戻しの出来ない状況に自らを追い込む可能性でしょう。(のりのりさんのコメント)


 どちらにも、「うんうん」と頷きながら、「ううーん…」と唸ってしまいます。(こういう話が出来る人たちがいてくれることに、本当に感謝申し上げつつ。)
 緩い絶望で、世界に関わることをはじめから放棄して、のんきに生きているだけではないのかというのは、自分の胸に手を当てて考えてみると、実に痛い指摘。だからこそ、絶望の淵を覗き込むことさえ億劫であるところに、物語の果たしうる役割があるんだろうと思います。その中で、“もしかしたら世界を変えられるかもしれない”という気にさせるトリックのようなものは、絶望の淵を覗き込むところへ、人を誘うために機能するものなのでしょうか。
 現在進行形の『コードギアス』のような作品について、これまでの作品と比較して言えることはまだ少ないのですが、特別な力の存在が物語に果たしている役割は、同じようなものなのか、異質なのか。私が気になっているのは、主にそんなところです。



| ランキングオンライン |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。