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『リング・オブ・ガンダム』を、ヒット作にするためには! 

[2009/11/20] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 書きかけている記事がいくつもあるんですが、いつもお世話になっているkaito2198さんが全力で『Ring of Gundam』応援記事を連載しておられるので、ちょっと反応してみます。話し相手がいるほうがいいんじゃないかな、と。

 富野由悠季ファン待望の『リング・オブ・ガンダム』への期待ということで、これはたぶん富野監督への提言というよりも、この作品をプロデュースすることになる誰かの背中を、「こうすれば売れる!(かも)」という感じでググッと押そうという力技の記事のようにお見受けしました。

 私はあくまで「観客」だと自分の立場を定義してますんで、これからの作品については「面白ければいいな!」と希望するばかりですが、kaitoさんの個々のお話には興味深いものがあるので、世の中の受け取り方からは遠いかもしれないオールドファンのたわごとですが、個人的に思ったことを書き留めてみます。

キャラクターとメカのデザインについて

  • 富野作品においては、キャラクターの造形は作品内容や作劇・演出に決定的な影響を与えない
超合金魂 GX-36 伝説巨神 イデオン

 これは同感です。それを強く思うのは、むしろメカのほうですね。あのイデオンのデザインを見ろってぐらいで、オモチャオモチャしたデザインを逆手に取れる富野監督の足腰の強靭さは凄いですよね。プロデューサーの立場で作品が「ヒットする」ことを前提にしたときに、富野監督ならではのこだわりを我慢していただくとすれば、まずはこの部分かもしれません。(監督、ごめんなさい。監督の理想をスポンサーが正しく理解するまでには、まだまだ時間がかかると思うのです。)

∀ガンダム ― オリジナル・サウンドトラック 1

 一方のキャラクターデザインについても、『ブレンパワード』のいのまたキャラをはじめてみた時は私もビックリ(笑)したものですが、それでも今ではブレンほど好きな作品はありませんから、監督の力ならどうにでもできるというのには同意。ただ富野作品の本質は人間ドラマですので、個人的意見としては、ここはメカよりもこだわりを残したいところです。
 先日、秋葉原であったあきまんさんの個展を私は見ることが出来なかったんですけど、油彩画で描かれた『∀ガンダム』のキャラクターの絵画を(ネット上でですけど)見せていただいて、人間味のニュアンスが豊富な富野アニメの人物を描くのには、こういうセンスがふさわしいのだなぁと強く感じました。(アニメ絵らしいマンガ絵、ペン画的なタッチより、他の例で言えばガンダムの安彦さんの水彩画の筆で描いた味わいが合っていたとか、そんな印象論です。)
 ストーリーとのマッチングから言えば、骨格のしっかりとした湖川キャラもベストマッチだったのですが、既に目に馴染みすぎてるという判断があるのならば、やっぱりキングゲイナーで抜擢された中村嘉宏さんの絵には、(例えラフ画でも)「いいなぁ!」と感じさせる力がありますよね。

CGについて

  • これはキャラクターデザインにも絡む問題で、実写の役者をベースにしたキャラクターとはいえ、人物の動き方や演技などと比べますと、顔と表情は明らかに圧倒的に物足りなかった

 そういうわけで、短編フィルム『リング・オブ・ガンダム』で、精一杯ファンの目補正をかけても、ちょっとどうかなーと思わざるを得なかったのはCGキャラクターの「表情」という指摘にも遺憾ながら同感(笑)。
 ただ、まあ、同じく富野ファン補正のかかっている頭で判断すると、あれは毎度何かと「モルモット部隊」にされる(新しいものへの挑戦者とも言う)富野監督に背負わされた十字架だったような気もします。モデルは売り出し中のイケメンライダーとグラビアアイドルかもしれないけど、アニメとしてはあのままじゃ残念ながら売れ筋にはなりにくいというのは、エンディングで中村さんのラフ画を見せているあたり、監督自身も問題点として承知しているのかな、と思っていたりします。

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何度でも観ましょう!『リング・オブ・ガンダム』 9月21日まで! 

[2009/09/13] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 富野由悠季監督の待望の新作フィルムであるから。たとえ5分ほどの予告編めいた短編であっても、この目にできることはうれしいし、何度も繰り返して観てしまっています。

 音楽のことはよく分からないなりに菅野よう子の音楽が凄いなと思ってましたが、繰り返し聞いているうち、冒頭から最後まで、ほぼ完全にひとつの曲として通っている感じがしてきました。これ、音楽だけのバージョンっていうのも聴いてみたいぐらい。
 っていうか、ドラマの盛り上がりと曲調の盛り上がりが本当に見事にシンクロしていて、絵があって曲を作ったのか、曲にあわせて絵を作ったのか、そんなことも不思議に思ったり。

 主人公エイジィを演じている(3DCGのモデルでもある)川岡大次郎さんは『仮面ライダーディケイド』なんかにも出ている役者さんらしいです。イケメンライダーですな。w

次世代の新機軸ガンダム「Ring of GUNUDAM」のキャラクターの声と動きを演じてます。 僕とほぼ同い年のガンダム。 俳優として、今、こういう形で、ガンダムに関わる事ができて光栄です。

 ヒロインのユリアを演じている平田裕香さんは『獣拳戦隊ゲキレンジャー』で、悪のヒロインを演じられたそうです。画像検索をするとびっくり(笑)しますが、グラビアアイドルとしても活躍中だそうです。

ガンダム 30周年記念作品【リング オブ ガンダム】 に関わらせていただきました☆ あのガンダムの生みの親、富野由悠季原作・総監督で、 音楽は大好きな菅野ようこさん。 その他にも、豪華スタッフ陣

リングオブガンダム、 ただいまインターネットで公開されているんですってよ! 短い時間だけど、すんごい世界観があって、想像を膨らませるとどこまでも広がっていきます。 見てみてくださいな☆

 ふふふ(笑)、芸能人の方のブログなんて、初めて読ませていただきましたよ。

 あと、私はアニメファンなんですけど、声優さんにはちっとも詳しくないので、ビューティメモリーの声を演じられた小清水亜美さんが、『エウレカセブン』のアネモネちゃんで、『コードギアス』の紅月カレンで、『狼と香辛料』のホロだと知って、ビックリしちゃいました。(無知でゴメンなさい!)

 サウンド面では、富野監督も「天才」とシャッポを脱ぐ菅野さんの音楽が、もうそれだけで世界観を作っていて。そこへ物語が乗っかっていくというか、絡んでいくというか、拮抗しようと立ち上がってくるというか。いわゆる「富野節」というのも、耳から入ってきたときの音の切れとかリズムとか、そういうものでもありますし。
 流れがギクシャクしていると地の文でベタベタに説明しないと表現は伝わらないんですが、「本線の情」にすーっと乗っていれば、むしろテンポが重要なんだと思います。「予告編」ではなく短編アニメーションと考えれば、当然のように内容は象徴的なものになりますし。(まあ『ガンダム』と思って見に行ったらアートアニメーション的なものであれば、戸惑うこともあるでしょうけど。)

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フィクション=「平気でうそをつく」=邪悪なもの?? 

[2008/06/20] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(2) | TOP ▲

 kaitoさんに刺激されて、久しぶりに富野御大のことに触れた記事を書いてみたのですが、いつもながら読み応えのあるコメントをいくつもいただいて。
 忙しいのは一段落したのですが、気が抜けたのか、あまり体調が冴えず、また、いろいろ惑いながら書いていますので、ひどく文意の酌みにくいものを読んでいただいて、ありがとうございます。

そして「平気でうそをつく人たち」(編注)という本を読んで、人間というのはすべてを、個だけではなく組織自体が忘却するという心理的な側面をもっているというのがわかった。これまでのガンダムを全部事実だというふうに肯定してもいい。肯定したことも含めてすでにウソかもしれない。肯定するということ自体、それをする人にとって過去は、本当にあったのか、なかったのかということも全部疑問符をつけていいもんなんだってわかった瞬間、「∀」のというより、ロランやディアナ、キエルの物語をつくり出せたんです。

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

自分の非を絶対に認めず、自己正当化のためにうそをついて周囲を傷つける“邪悪な人”の心理とは? 個人から集団まで、人間の悪の本質に迫るスリリングな書!

(amazon「出版社/著者からの内容紹介」)

 元記事の元記事(笑)から、もう一度読み直してみました。私は(↑)この本は読んでないのでそこは軽く読み飛ばしちゃってたんですが、のりのりさんが、「あの本(「平気で嘘をつく人たち」)を読んでああいう認識にいたるの!???」と反応しておられたので、どんな本なのか(by amazonですけど)見てみました。
 未読なのにいい加減な解釈をしちゃいますが、“世の中には、そういう邪悪な人も存在しますよ”って趣旨の本を読んで、富野監督は“そういう性質というのは人間全般に多かれ少なかれ偏在している”という認識に飛躍しているんですかね?

 ここは『∀ガンダム』についての話なので、「うそ」一般についての話と言うより、フィクションについての話として私は読んだのです。ターンエーには白々しいフィクションがけっこうありますよね。まあ、そもそもロボットアニメなんて・・・というのは脇に置いても。ロラン・セアック(男)がローラ・ローラ(女)とか、ディアナ・ソレルとキエル・ハイムの入れ替わりだって、もっと早く気づくだろ(笑)、というようなものです。
 平気でうそをついているんですね。

たとえばSF作品であっても、SFがわからない人が見てもおもしろかったよねって言わせるのがビジュアル媒体だと、僕は基本的に思ってる。で、僕の場合というか、僕らの世代はそれをずっと映画的なものというふうに考えていたわけです。映画一般なんです。SFであろうがポルノだろうが、文芸映画だろうがいっさい関係ない。みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」というのが映画であるハズなんです。ところが、それを一生懸命区別をつけようとしている人が、たとえばアニメというものを、とても幅の狭い媒体におとしこめているということです。

 それが(↑)このへんに繋がってる。(富野監督にとって、「映画」的=みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」だっていうのも私には“そうなんだー”って感じでしたけど。)
 端的に、“うそ=邪悪”という枠組みではない。

「初代ガンダム」って、「正義と悪は相対的なものだ」という見方を始めて明確に打ち出したTVアニメだと思うんですけど、「∀」になると、そもそも正義とか悪とかという概念自体がない

・・・と大森氏が指摘してるのも、そのへんなのかなーっと。「白富野」は人が死なないから正義だったり善だったりするんじゃなくて、「平気で嘘をつく」ような、したたかなタフネスさ(=しなやかさ)が話のキモだってことですね。
 その、“あえてフィクション”ということの意味を、少し拡大して考えてみたいと思ったのが前回の記事です。
 「例え“目の前の現実”であってさえも、一人の人から見えていることというのは、常に“一面の真実”でしかないという。・・・その危うさを自覚しながら、それでも敢えて何かを語らずにはいられないんだという、そういう覚悟」のことをいきなり書いてしまったんですが、バルタザールさんが指摘されたように、人間の認識力の限界に絶望するべきではないと私も思います。
 それと同様、“メディアを通して知る現実”も、無意味なのではなくて、その危うさを覚悟するという条件のもとで価値はあるし、そのときに手がかりとなるものは“目の前の現実”しかないでしょうね。多分私が言いたかったのは、“身体性”のないフィクションだけで、ものを考えるのは危険じゃないかということです。

  • フィクションであるというその時点で、それは現実に対する一つのメタファー(暗喩)を構成しているとすれば、さらにその中に配置されたメタファーを必要以上に分かりにくくするのは、内向きに閉じた自己満足でしかない
  • “分かる人には分かる”というメタファーの置きかたのほうがそれはカッコいいんですが、それは技術論でしかない

 それから、(↑)メタファーについてこのように書いたのは、kaitoさんの記事にあったオタキングのコメント(「コクピットは元々子宮のメタファーなのに、富野さんのはモロ子宮じゃん」)に直接的に反応したものです。
 「分かる人にしか分からない」というのは、カッコわるいというバルタザールさんの意見に共感するんですが、のりのりさんの冷静な指摘で、少し思い直しました。
 ここでの話の流れからすればむしろ、どうやったって分かる人にしか分からないという認識を、諦観ではなく覚悟としつつ、それでもなお「みんなが見てわかるような映画をつくればいいじゃないか」とオープン・エンターティンメントとしての機能にこだわり続ける富野監督にもっと学ぶべきなのかな、と。

本来、ミーハーの大衆というところに落としていって、わーい!と楽しんでもらえるものをつくりきれないというあたりでは、メジャー狙いをしようと思って一生懸命背伸びをしている人間としては、なんだかんだ言いながら映画屋になり切れない自分を自覚する

 だから富野監督、大好きです!(結局そこかよ。) (*^。^*)

ふっふっふ・・・。 (^^♪ 

[2008/02/14] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 この冬は雪国のくせに雪降らないなー、などと言っておりましたら、今夜は何やらしんしんと降りしきっておりまして、明朝はヤバ気な感じでございます。
 近ごろ休日はしっかり休みをいただいているのですが、その分、勤務日は残業続きで、日々のアニメも満足に見れないことが多くなっております。それに、水道管じゃあるまいし雪は関係ないと思うのですが、プロバイダの接続が時々ひどく不安定になりまして、おちおちGyaOなどもみておれないような感じです。

 ・・・でも、そんなの関係ねー!(笑)

 今日の私は、鏡を見なくても口元が自然ににやけているのが自分で分かるぐらい、とてもとても幸せです!それは!・・・

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“黒富野”vs“白富野”という話(・・・なのかな?) 

[2008/01/20] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(11) | TOP ▲

サンライズ『∀ガンダム』 - 主にマンガやアニメに関するメモ

 こちらを読ませてもらって感じたことから、(いつものことですが)雑談的に書いてみます。

 「カプルの体育座りはすばらしかった」と書いておられるんですけど、あれには困ったという話を、富野監督は言ってたらしいですね。

『カプルを本編に出すのは正直困った。世代間のギャップによるものだろうが、ここまで僕のわからないものを出してくるのかと思った。 コンテを切るにしても芝居させにくいメカだった。本編で上手く使われていると思う人が居るとすればそれは偶然に近い結果によるもの。』

∀ガンダム・アートワークス

 上手く使われている・・・と思うんですけどねー。(笑)
 言われてみれば、なるほど“芝居”させにくいメカかも。「ロボットにまで芝居させる人」(いやいや、動物にまで“芝居”させてますという指摘もありましたが、)ならではの表現で、決して偶然ではないと思わずにはいられません。

 「ところでローラだからOPは西城秀樹だったのだろうか」とのことですが。(笑)
 なるほど!いや、逆に主題歌がヒデキだったから、「ロ~ラ♪」だったという線は捨て切れないですねー。「傷だらけのローラ」!これは私ほどのオッサン世代が、指摘されるまでそれを思いもしないとは、実に不覚でした。これだからいろんな方のお話は伺ってみるものです。

 ・・・って、余談が長くなりましたが、『∀ガンダム』は、たしかに語りにくい作品だと思います、うん。富野好きには定評のある作品だと思いますが、世間一般で人気があるとは言えないところが残念なのですよねー。

メカ好きとしてはこだわりどころである「リアル/スーパー」というところを、富野さんの場合、ある程度意図的に(あるいは感覚的に?)自在に越境しているところが、(繰り返しになりますが)私は面白いと思うんです。

 「ひげのガンダム」のデザインの話は以前もこのへん(「ロボットという夢。―富野アニメでは最後に覚めて終わるもの」)でしましたが、「メカ/キャラクター」という越境のしかたの話にもできそうですね。(“芝居”という言い方に馴染ませると、キャラクターというのは“役者”とも置き換えられそうですが。)

 anterosさんの記事では、地球の住民と、月の住民というそもそもの所属があり、それぞれに言い分もあって、その間に対立があり、・・・という初期配置ではじまった物語が、終わってみれば「地球人、ムーンレイスの区別なく、和平を望むもの、破壊を望むもので別れた」のは、そもそもの所属を簡単に離れてしまい過ぎではないのか、というところに引っかかっておられるんだと読解しました。
 所属とは、「人間の生存を条件づけるもの」であり、「こういった桎梏から自由になることは容易ではない。所属の桎梏を逃れて自由にそこから逃れることのできるものは限られたものにすぎない。」という指摘を、『伝説巨神イデオン』の場合を例に出して言っておられます。つまりイデオンで言うと、まさに人間の“業”のことですね。・・・これは俗に言う、“黒富野”vs“白富野”ということになります!(笑)

 『ブレンパワード』以後の“白富野”では、「生存を条件づけるもの」の強大さ、あるいは不可避性という問題(=“人間の業”)が看過されてしまっているのではないか、という問いは、あってもおかしくないものだと思います。
 実はanterosさんとは、『キングゲイナー』について書かれた記事(サンライズ『Overmanキングゲイナー』 - 主にマンガやアニメに関するメモ)でも、“戦闘シーンの中での対話”ということについてお話をしていたのですが、なかなか噛み合わなかった話の要点が、ようやく分かった気がします。ちょっと飛躍しますが、人の性は善(性善説)と思っているかどうかということだったのかも。言葉が人の真実を映すものではない(「誤り」を不可避的にもたらす)のは自明のこととして、言葉にならない部分(本当はこう思っていた、というようなこと)で、人は善であるのかどうかということですね。
 富野さんはそうしたものを信じてないのではないか、と言われると、そうでしょうねとしか・・・。つまり、善も悪もなく、人は人というものなんだろう(それ以上でもそれ以下でもない)、と考えていそうな気がします。
 人は誰も、常に何ものかに所属していて、善も悪もなく、そこに対立は生まれる。対話の中で「誤った」コミュニケーションは不可避に生じるけど、それを前提として、その上で何をするかが問題なのと、それは同じことですよね。

 ただ、だからこそ、そこで“越境”が必要となるのであり、その手段としての“芝居”なのではないかと思うのですね。“エンターテイメント”というよりも、ここでは“芝居”であることが、より重要かもしれないですね。あるいは、その業を超えることが出来ないというのだけでは、当たり前すぎて芝居にはならないのかもしれません。(芝居にする意味がない、のかも。)

 『∀ガンダム』では、ギム・ギンガナム一人だけが、最後までその「人の業」を背負ってしまったのではないかという指摘も正当なもので、『ターンエーは失敗。特に敵の設定を根本で間違えたのではないか。』と富野監督がおっしゃるのも、そういうことなのかもしれないなと思いました。
 けれども『∀ガンダム』は、“人の業”を看過してしまったのかといえば、私はそうではないと思います。最終回、どうしてソシエさんは「わーーーーーーーっ!!」と叫ばなくてはならなかったのか。咬めば咬むほど味わいのある芝居がそこにはあると思うんですよね。
 所属を超えることは困難であることは言うまでもないけれど、それを超えてみせる(戦場での対話の可能性を拡大してみせるように)のは、それが“仮面劇”としてのアニメ(とりわけロボットアニメはそう)の存在意義だからではないかというのが、私の考えです。
 つまり“人の業”を前提として、その上で何をするか、なのだと思うのです。そこいらが、あまりに隙がなくタイトに組み立てられているんで、いい作品だとは思いながら、感想を述べるのが難しい作品のような気もするんですけどね。

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