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無力感という底なしの淵 

[2006/05/24] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 皆さん、励ましをありがとうございます。
 たぶん、自分の中のどす黒いものと向き合ってしまっているようです。
 どす黒いものは常に私の中にいるのですが、普段は上手に飼いならしているはずなのですがね。
 たとえば風邪をこじらせて、喉どころか気管支が痛いとまで既に感じてしまっているのに、それでもニコチンの禁断症状に耐え切れなくなるような。

 体も弱いが、意志も弱い。

 仕事も、人間関係も。その無力感・・・。

 こんな気持ちでブログでもないだろうと常識的に思ったのですが、でもこんな時だから、皆さんと話してみたいのかもしれないと思い直して、少しリハビリを試みてみます。

<善良な市民>
こんな安易な救済と自己正当化に満ちた映画も珍しい。TV版ではてんこ盛りにされていたアイロニズムがとことん脱臭され、かわりに安易なロマンティシズムに落ち着きました、めでたしめでたし……ってバカじゃないの?
第二次惑星開発委員会 今日のクロスレビュー「機動戦士ΖガンダムIII 星の鼓動は愛」



 完全な失敗と断じ、「この映画版については後日徹底的に論じる用意があるのでお楽しみに」という締めくくりに対して、こころ世代のテンノーゲーム-「善良な市民」の転向?では、こういう意見が出ています。

「徹底的に論じる」ポイントってこういうこというのかな?
nullpo.printStackTrace(); : それは洗脳だ、陰謀だ


 リンク先にあるのは、「現状肯定」批判なのですが。

 ずいぶん都合のいい「現実」の中で、キミとボクとでセカイがどうこうなっちゃう物語について話しているんだったら、現状が肯定されようが否定されようが、どっちであっても「へぇ、そうなの」と思っちゃうんです。それ以上でもそれ以下でもない。
 でも『Ζガンダム』はたとえ新訳されたって、そういう物語では決してない、と私は思うのです。

 セカイ系のわけの分からない全能感とは対極に置かれるような、どうしようもなく深い無力感。その暗い淵の奥底を直視しながらね、暗さの中に耽溺して沈みこんで行くのではなくて、例え、どれほどみっともなく、その淵の薄い薄いへりに必死でしがみつくようにしてでも、無力感に耐えて立たなきゃいけないんだよ。(・・・って書いてたら、なんか涙が出そうになってきた。馬鹿だ、自分。)

 自分が富野さんの作品が好きなのって、そういうことだと、・・・個人的に最悪の状況の中で、何を考えてるんでしょうかね、私ってお馬鹿さんは。

 そうですね、ゆっくり風呂でも入って寝ます。皆さんありがとう。


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完成度というのは微妙なものですね 

[2006/05/08] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

ニュータイプについては、色々微妙だなと思うのですけれど。


 ほんと、微妙すぎて話が尽きないですね。(笑)
 言われるとおり、物語の完成度という点から言えば、ダメなんだろうと思います。同じ物語の作り手として見たら、許せない破綻なのかもしれないですね。私なんかは完全な受け手でしかないから・・・。
 そういう意味では、話をしている自分の立ち位置というものがはっきりしていなきゃならないんだろうけど、このブログなどというのは(安っぽい言い方をすれば)自分探しをしているようなところもあって。だから話をしながら少しずつ立ち位置がずれていっているかもしれないです。こういう姿勢は零細ブログではあっても「書き手」としては望ましいあり方ではないですが、完成度ではない何かというものがあるんだろう、ということで、私は書いてますし、常連の皆様方もそんなことはとっくにご承知でしょう。
 ・・・要するに、そういうところこそが富野アニメを愛してやまない理由でもあるとでもいうのか、私は! (笑)

 小説版のラストのことはずいぶん忘れてしまっていました。文章の書き手としての富野さんというのは、昔からあまり評価していなかったのですよ。だからアニメというものに特別な可能性を感じていたという自分が逆説的に分かるんですが。今はどうなんだろ?

事実、時代は変わった。ただ、それが輝かしいものではなかったというだけの話だ。
機動戦士Ζガンダム回顧録:#15カツの出撃


 分かってはいるのですよ。・・・だけど、私たちはいったい何を話しているんでしょうかね?
 輝かしい未来像を示すことに失敗したら、それはもう過去のものではないのか。

 ブレンパワードの大人談義は「まともな」(かくあるべき)大人という話じゃなくて、「まともに描かれた」(ちゃんと存在を表現された)大人という意味だったのですね。そういう意味でしたら、私の誤解でした。そしてとても納得です。「人それぞれ抱えてきたものがあって、今そこにいる」という当たり前のことですが、最近の「セカイ系」では、ないがしろにされていることを、きちんとやっている作品だと。
 ボクとキミの間の閉じた関係の中でだけ語った方が、物語の環はきれいに完成できるんですが、そうじゃないものを貪欲に求めるところが富野さんの面白いところですよね。

 時代が変わり、アニメファンは目が肥えてしまって、完成度の低いアニメなどというものは、見る価値のないものだということが半ば自明のことになっているような気がします。頑張ったけど、劇場版Ζガンダムが今ひとつ支持されなかったのだって、たぶんそういうことじゃなかろうか。
 しかし、完成度の高いものに出来ないのには、出来ない理由というものがあるんじゃないか・・・ということを考えるのは。

 時代遅れなのでしょうかね???

洗練されきらぬ美味 

[2006/05/06] | アニメ全般な話題 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 「まったりとニュータイプ談義」の続きをさらにまったーりと書き綴ってみたいと思います。

たしかに
ファーストってアムロとシャアの活躍で戦争が終わったって感じでもないですね。ZやZZは主人公がボスキャラを倒してお終いって形になってる。そのあたりがファーストとZシリーズの奥行きの差を生んでいたのかも。


というわんこさんのコメント
 最近気になる言葉、「セカイ系」でいうところの主人公やヒロインの全能感というやつ。それの正反対の位置にファーストは置かれるのかな、ということをふっと思いました。ただΖでも、カミーユがシロッコを倒して物語りは終わるけど、それで世界が救えるわけでもなんでもない。
 むしろファーストではニュータイプという、遠くかすかな希望を示して見せたのに対し、Ζではニュータイプになったって救いにはならないという残酷な現実を嫌になるぐらい見せ付けてくる。
 「奥行き」・・・。難しいですね。個人の力の限界を見せている点では、両者に差異はないか、むしろΖのほうが念がいっています。どうしようもない無力さの中で、「人にはそのぐらいしかできんのだ」ということをやってみせること、なのだと思うのですが。
 作品の制作年代から言って、ファーストの時代には未来への希望が語れたと思いますが、Ζの時代には未来への警鐘を鳴らすことの方が重要であったのかもしれず。しかしΖというのは、今だからそう見える部分もあって、・・・新訳Ζというものが、10年、20年先にどう見えてくるのか、ということに私はとても興味があります。

逆シャアのラストは劇場版ナウシカ並の奇跡でした。そこで思考が停止しちゃうんですよね。またそういう理屈を超えた部分が感動的でもあるんですが。


 ガンダムはSFじゃなくてロボットアニメだと私は最近思っているので、奇跡は全然OKなのです。多くの人はSFっぽさでヤマトを圧倒したガンダムに喝采を贈りましたが、どうも違うのじゃないかと。ニュータイプってのも一見SFっぽい概念で、ただ、巨大な人型ロボットが宇宙でも地上でも活躍する程度の粗雑なSFっぽさの枠組みの中でなら、「サイキックウォーズ」が出てくるぐらいは全然どうってことないだろうと思うのに。ミノフスキー粒子だとかAMBACだとかいうフェイクなどは、お約束として見て見ぬふりをしてたはずだのに、慣れてしまうと忘れてしまうんだろうか、とか。
 ハードなSFはロボットアニメよりハイカルチャーだというヒエラルキーは自明なものなんでしょうか。問題は中身のはずなのに、器の見栄えの善し悪しを語ってしまいはじめると、話がすれ違うということを最近ときどき思います。その状態がつまり「思考停止」で、私はむしろ、理屈を越えた部分で感動したことを話し合うのがお約束だと思っていたいほうです。

イデオンとエヴァって基本的に人が原初の姿になるってオチだったけれど、イデオンのコスモは、最後までそうならないよう戦ったのに対し、エヴァではシンジくんの望む世界となった。その後のそれぞれの主人公の表情が正反対なのは興味深いです。


 「・・・!」
 それかもしれないですね。人間は業の深い生き物だ、として、それを受け入れオノレの業と向き合いながら死ぬまでを精一杯生きるのか、そういうウザイ「生」から逃げ回って逃げ回って・・・でもエヴァの最後は結局向き合うのですかね?
 
 フェイクとか言ってしまいましたけど、難しいですよね。やっぱり美味そうにみえることだって、意味のないことじゃない。フェイクの形式美ってことだってあるんだろうと思う。
 でもあまたのフェイクを取り払った果てに舌の上に残るものの味わいを、私はやっぱり探してみたいと思ってしまう人のようです。

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エヴァンゲリオンとザンボット3 

[2006/05/03] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

人類補完計画など作品中では明瞭にその全貌や実体が明らかにされない数々の伏線を散りばめたストーリーはSFファンを中心に人気を集め、最終話に向けて視聴者の期待は盛り上がったが、第弐拾五話と最終話の2話はそれまでのストーリーとは断絶した主人公の内面世界の物語として描かれた。このエピローグについてはファンの間で賛否両論の物議を醸し、アニメファン以外にまで認知され、人気は拡大していったといえる。しかし、オタク向けアニメの印象もついている節も見られる。
新世紀エヴァンゲリオン - Wikipedia


 アニメの話は久しぶり?(笑)
 のんびり私は見てるので、やっと12話(「第拾弐話」とか書かないと怒られる? 笑)「奇跡の価値」を見終えたトコなんですけど、ここまでの前半を見た限りでは・・・「オタク向けアニメ」は印象じゃなくて、それそのものですよね。もちろん後半に向けていろいろあるんでしょうけど。
 ただですね、ラスト見てナンボ、劇場版見てナンボというのは、イデオンと一緒だなぁという話は前にも書いたと思うんですけど、未見の人にイデオンのテレビ版を「是非ご覧くださいませ」とはなかなか言いにくいものがあります。イデオンは(ファーストガンダムだって本当言えばそうなんだけど、)テレビ版について「荒い」ということを言い始めたら、ブレンなんてものじゃなく荒いですよね。もちろん時代が違うのですが。
 エヴァの同時代のテレビアニメなどというのを、実はほとんど知らないので分からないんですけど、たしかにエヴァは「細かい」と思う。ここで細かいという言い方は緻密なクオリティという誉め言葉のつもりなんですけどね。
 だからファーストガンダムやイデオンや、もっと言えば宇宙戦艦ヤマトの頃の同時代のアニメに比べて、それらの作品がどう凄かったのかってのを、実際体感してない人たちに私なんかがいくら話したって通じないのと同様に、今の私にはエヴァの凄さっていうのは(前半だけでは)かなり微妙。
 OVA的なこだわりを地上波でオンエアしたなんてことででもあるのかな。それこそ「オタク向け」クオリティであるような気もしますが。

 何しろようやくテレビ版後半で、・・・にしたって、劇場版まで見なきゃ話にならないわけで。それで、ためらい傷のような劇場版を何作も見なきゃならないのでありますねー。(今、見ることの出来る劇場版の順番ってのさえが、よく分からなくなっちゃうんだ、これが。)

 物語として「セカイ系」のはしりだという。(Wikipediaはまた、「中立的観点」で議論中のようですがw)価値観の崩壊、物語への不信。

「セカイ系」という社会や世間、国家等の第三者的概念が省略された形の物語が強い形で受け入れられた背景には、ファンの間に第三者的権威への強い不信感や、都市部における「どんなときも絶えず他人(第三者)が側にいる」という人口過密状態への拒否反応があることが伺える。


 テレビ版エヴァの前半ってのは、そんな感じですかね。変なことを言うけどムードとしては『ザンボット3』(富野御大)とか、どうなんです?ザンボットでは第三者は省略どころか、無理解ないし敵視を投げかけてくる在りようが直視されていますけどね。
 そのムードはザンボットではラストワンカットで反転されるんですが、エヴァもラストでひっくり返ってるんじゃあないのですか。(ザンボット3論についてはyasuakiさんの考察をご一読ください。)
 ザンボットの信じられないほどの無骨な苦さと、エヴァの言わば甘美な口当たりのよさと・・・・・・そんなことを考えながら、ゆるゆるとエヴァ後半へ向かって行きたいと思っています。
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