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ざざん ざーざざん ざざん ざーざざん・・・ 

[2007/07/10] | 「おたく」な話 | トラックバック(0) | コメント(2) | TOP ▲

 先日、スコタコとレイズナーがあたった話を書きました、「サンライズ ロボット セレクション」。今日、ようやく本命のザンボット3をGETしました!(笑)

ザンボット3

 なんだかね、コンビニが視界に入るたんびに目が泳いでたんですよ。もう、“スイッチが入っちゃった”って感じで、頭の中でエンドレスに

♪ざざん ざーざざん ざざん ざーざざん・・・

って、鳴り続けているような状態。ほんと、駄目人間です。(笑)

 これ、ローソンやファミマじゃ置いてないのは分かりましたけど、サンクスでも置いてあるところとないところがあって。もう、この数日で何軒、無駄足を踏んだやら。

 あとネット情報は正しかったです。引きが“重い”のがスコタコ。ザンボットは明らかに“軽い”!

 念願のザンボを手にしたのは本当、嬉しいんですけど、ただブツとしては印象が微妙です。やっぱりスコープドッグとか、レイズナーとか、いわゆる“リアル”系のものは立体化のイメージも確立されたものがあるんだと思うんですけど、ザンボは“スパロボ”系ですからねぇ。なんとなく違和感が。
 巨大な感じを出すためなのかな、頭がとても小さい。で、額の三日月とかディティールをやや強調して大きく作ってあるので、“顔”がすんごく小さいんです。意図は分かるんですけどね、なんだかもう少しコミカルでもいいような気が。

 やっぱりスーパーロボット系は、“超合金”っぽい質感のほうがしっくり来るのかなぁなどとも思いました。でもまあ、525円でザンボット3のフィギュアを入手できたんだから、文句を言っちゃいけませんね。(笑)

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面白くて文句を言う(笑) 

[2007/05/26] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 なんか自分で、変なのかなぁと思ったりするので、ちょっと書いておいてみようかと。

 私、あんまり現在進行形の最新のアニメとかは観ていないんですけど、それでもまぁ、『蒼穹のファフナー』(2004年)とかは比較的最近のアニメだったんですよね。比較対照が『ザンボット3』(1977-78年)とかだったりするところが恐ろしいところですが。

 のりのりさんがご指摘されたように、アニメ史的な部分での関係みたいなものも、非常に関心があります。でも、基本的には、自分の楽しみとして観ているんだな、と自分で思います。ザンボットなんて古い古い70年代のアニメなもんで、近年の作品なんかと比べたら、めちゃくちゃ粗くて、観てるときなんかでも、どっかフィルターをかけて観ているようなところはあります。だけどそれで楽しいんです。我慢して、アニメ史のお勉強のために観ているわけじゃないんですよね。

 何の話かって言うと、ザンボット観たりすると、時代背景として、コンバトラー(1976-77年)とかボルテス(1977-78年)とかも見直したくなるんですよね。本当は、マジンガーZ(1972-74年)も観るべきなのかもしれないです、いずれももう遠い記憶の中にしかなくなっちゃってるから。ただまぁ、これは何だかしんどいような気がしちゃってるんですよね、とりあえず今のところは。そこが自分でも不思議だなぁと。長浜三部作なんて、けっこうドラマもしっかりしてたような気がするのに、どうしてなのかなぁと。
 もう一つは、ファフナーみたいな最近の作品を観ていても、そういう苦しさって言うのはないんですけど、まぁ個人的な感想ですけど、ググッと来るものが一味足りない印象があります。

 それは富野さんの個性に魅かれてしまっていると言ってしまえばそれまでなんですけど、ザンボットを観て思ったのは、当時のロボットもの、それも“漫画映画”ですらなくて、“テレビまんが”と蔑まれるような媒体で、本気のドラマをやろうという、そういう意欲っていうのは一体どこから来たものなんだろうかって。

 そういうハンディみたいなものは、今ではもうあまりないんだと思うんです。(皆無ではないと思いますけど。)ファフナーなんかは、エヴァと比較されたりとかのつらさはあったろうと思うんですけど、でも、ずいぶん真っ直ぐに“いい物語”を作ろうとしていたなぁと。それに比べて、ザンボットの何と屈折に満ち満ちていたことかと。(笑)
 ザンボットなんかは、ぶっちゃけ長浜監督のコンバトラーへの直接的な対抗心、“あれよりもさらに濃い物語を”、みたいな意識は強かったんじゃあないかとも思うんですよね。

 っていうと、ネガティブなイメージに受け取られちゃうのかもしれないんですけど、そういうモチベーションが、水準を抜きん出る作品の生まれるときには背景にあるものなのかもしれないと思ったのですよ。ちょうど『機動戦士ガンダム』が『宇宙戦艦ヤマト』への強力な対抗心で作られたみたいに。

 で、私なんかはヤマトやガンダム(それどころかマジンガー)の現役世代ですから、そういうのを観るときのオートフィルターみたいなのは、何の自慢にもなりませんが、たぶん標準装備なんですよね。(笑)
 そうしてアニメを観るときに、いちいちそこまで考えてみているわけではないですけど、例えばプラス点とマイナス点があったときに、それの総和で考えるのではなくて、マイナスポイントは勘定に入れずに、プラスポイントだけをひたすら積算していくような、そういう体質になっちゃっているような気がします。

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でもやっぱ泣いちゃいました~『ザンボット3』終盤戦。 

[2007/05/23] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 見ちゃいましたよ。泣いちゃいましたよ。『無敵超人 ザンボット3』最後の1巻(第19話~23話)。超雑駁な感想メモを書き散らしておきます。
 「♪ザザン ザーザザン ザザン ザーザザン・・・」って耳に残ってかなわないなぁって思っていたんですけど、これで当分はご無沙汰かと思ったら寂しいなぁ。(笑)

  1. 明日への脱出
  2. 決戦前夜
  3. 決戦!神ファミリー
  4. ブッチャー最後の日
  5. 燃える宇宙

 『さらば宇宙戦艦ヤマト』は1978年だから、この作品の翌年なんですよね。倒しても倒しても、さらなる敵が、って展開は、『ザンボット3』のほうが先なんだよなぁ。しかも同じ体当たりでも、ヤマトのようにそれを美化するだけじゃなくて、考えさせられる内容はこっちのほうが深いかもしれないなぁと思いました。
 考えてみればバンドックへの反撃のきっかけをつかむのは、“人間爆弾”にされた名もないキャラクターが、それを逆手に取った自爆攻撃からなのでした。って言うと、ヤバ気なんですが、でもたぶん、そこから考え始めなきゃいけないような気がします。いつ、どうやって死ぬのかは自分で決めたいと言っていた、彼の犠牲から最終決戦は始まったとも言えますね。(まあ、その前に中盤の第15話で「海に消えた老将」の前例がありましたけど。)

 その上で、神ファミリーの中では最初に体当たりをするのが一族の長であるおじいちゃんであるということにも意味があるんだと思います。体当たりの直前に、敵は必死でかわそうとするので「逃がすかぁ!」と最後の瞬間まで操縦していなければならない必然も描かれますし、この作品で「うわぁ」と思うのは、ぶつかった瞬間に潰れる操縦席あたりをけっこうぎりぎりまでしっかりと描写しているんですよね。体当たりしてでも敵を倒すという痛快感よりも、その恐ろしさのほうが強く印象に残ります。

 その戦いの後で、恵子を除く女子どもと香月を、睡眠薬で眠らせてカプセルで地球へ脱出させるという描写が入るんですけど、そんなことなら最初から乗せてこなきゃいいという気もします。でもこれは、おじいちゃんの最期を見て、男たちはみな覚悟を固めたってことなんでしょうね。全員戦闘服(?)になったのもその表れなんでしょうか。何で男の中では香月だけって思うんだけど、香月には生き別れの家族がいて、地上で彼の無事を祈っているっていうのがあるから、だから殺しちゃいけないってことなのかなと思いました。

 次に体当たりするのは源五郎お父さんで、やはり家長的な立場にある人間から順に、ということなんだろうかと。
 ただ、それに続いた宇宙太と恵子の場合はどうかと思うのは、彼ら少年少女が戦わなきゃいけないことの理由付けでもあるんだろうけど、「すばやい反射神経の動きをコンピュータにストレートに送るにはあの年頃の神経が必要」などと称して、この子たちには“睡眠学習”で意識の隅々まで「戦う人間」の教育をし、戦闘の恐怖を感じないよう暗示までかけてるという設定。それじゃ、ある意味“強化人間”のようなものなんで、そこはどうなのかなぁと。自分の生き方(死に方)を自分で決めたということにそれでなるんだろうか、それは一番やっちゃいけないことなんじゃないんだろうか、とも。
 それから、爆発しながら地球に墜落するバンドックの中に残された勝平を助けるために、ビアル一世で押し戻そうとして爆散する叔父二人と兄。これはちょっと、最後を勝平一人にするための作劇上の犠牲っぽくて、あまり納得できませんでした。

 「お前の身内のものは戦いのたびに次々と死んでいった。地球を守ると言って。だが、どこの、誰が、ありがたがってくれるんだ。」
 「我はガイゾック星人によって作られたコンピュータ・ドール第8号に過ぎない。」
 地球は悪い考えに満ち満ちた星だ、憎しみ合い、嘘の付き合い、我が侭な考え、まして仲間同士が殺しあうような生き物が良いとは言えない。
 「地球の生き物が頼んだのか?」
 「この悪意に満ちた地球にお前たちの行動を分かってくれる生き物が一匹でもいるというのか?」

 ・・・このあたりは言ってみれば、『逆襲のシャア』なんかと同じ構図なんでしょうね。

 「じいちゃん、父ちゃん、ばあちゃん、・・・お、俺たち、やったよね? ちゃんと戦ったんだよね? 宇宙太、恵子、一兄ちゃん、・・・俺たちは、つまらないことなんか、しなかったよな・・・なぁ、アキ?」

 世の中にはいろんな富野アニメの見方をする人もいるので、以前に『逆襲のシャア』のラストについて、最後にアクシズが押し戻されたのは、あれは末期のアムロが見た幻想に違いない、という感想を読んだことがあって、それで私は思わず絶句したんですけど。(笑)
 その線で行けば、例えば『発動篇』でイデが発動したあとにメシアによる再生が描かれたのも末期のコスモが見た幻影だったり。そして、この『ザンボット3』のラストで勝平が人々に迎えられるのも、末期の勝平が見た幻影だったりするんでしょうか。

 あるいはそうなのかもしれない、と言うのか、とにかく考えさせられるラストだったと思います。何ていうか、ただ物語の中の出来事に陶酔して、苦難の果てに「あー、良かった、面白いアニメだった」というだけで終わるんじゃないという。そういうことなんだろうな、と思いました。
 咀嚼するのにはもう少し時間がかかる気もしますが。(って、そんなことばっかり言っていますけど。)いわゆる“ロボットもの”にしたって、昔のものだけあってかなり荒削りで、決して手放しで誉められるような作品ではなかったと思いました。が、その見下されている存在であった中に本気でドラマを入れ込んでみせるという気合はひしひしと感じられ、むしろそれが余って、富野監督としてもいくらかは反省される点もあったのが、この『ザンボット3』という作品だったのではないかと、そんな印象が残りました。

『ザンボット3』中盤戦―さぁて、どう戦い抜くかな? 

[2007/05/16] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 第6話までの感想を書いて以来、黙っちゃってましたが、挫折はしておりません。見ております。今、18話まで見終わったところです。最近、軽くですけど鬱気味なんで、重いの苦しくて。(笑)

  1. さらば! 我が友よ
  2. 廃虚に誓う戦士
  3. 危うし! キング・ビアル
  4. バンドック現わる!
  5. 決死の爆破作戦
  6. 誕生日の死闘
  7. 果てしなき戦いの道
  8. スカーフよ永遠なれ
  9. 海に消えた老将
  10. 人間爆弾の恐怖
  11. 星が輝く時
  12. アキと勝平

 ようやく神ファミリーのことを世の中も少しは認めてくれるようになってきて、あの香月も勝平への憎しみを解いてきたんですけどね。うーん、休む間もなく“人間爆弾”というところですよ。うぐぐぐ・・・。

「人のいないところへ行くよ。最期ぐらいカッコつけさせてくれよ。えっ、えっへっへへ・・・。」
「どうせ、父ちゃんも母ちゃんもいなくなっちまったんだ。俺だってすぐに母ちゃんとこへ・・・。」
「・・・・・・お、俺、いやだ。母ちゃんも父ちゃんもいないところで死ぬなんて。一人で死ぬなんて!・・・イヤだぁ!!・・・イヤだぁ!!」
「誰か止めんか!爆弾になったものを人様のいるところへやるでない!」
「イヤだぁ!!怖い!怖いんだ。父ちゃぁん・・・父ちゃん、母ちゃん、怖いよぉー!母ちゃん、助けて、助けてよぉ!何でも言うこと聞くからよぉ!母ちゃぁん!父ちゃぁん!」

第17話「星が輝く時」

 この作品を見ていて驚くのは、これだけ息苦しい物語を続けていても、ロボットものの“鉄壁の方程式”とでもいうか、かなりの力技で活劇としてはほとんど停滞させていない気がするんですよね。だからこそ、なんていうか、これこそは、ものすごく確信犯の“黒トミノ”なのではないのかと。(あの『Vガンダム』だって、もう少しためらいみたいなものがあったような。)

戦争とはああいうものです。そういうものを隠しておくのは、子供にとても悪い事だと思います。

 “人間爆弾”について、富野監督はこう仰っていたそうですが。・・・悩みます。悩むんで正解なんでしょう。

 神ファミリー周辺の戯画化されてはいてもシリアスそのもののエピソードと裏腹に、馬鹿馬鹿しいまでに馬鹿馬鹿しく描かれる“キラー・ザ・ブッチャー”周りのギャグ表現とか、こういうのもスポンサーサイドから要望があったんでしょうかねぇ。こっちがね、むしろ胸糞が悪くなります。
 ここには現代戦のリアリティなんてこれっぽちもないですし、このへんを見ているだけでは、“悪”の権化である敵に対するやり場のない怒りが沸いてくるわけなんですけど。

 さすがにね、半泣きですよ。ダイナミズムのある“活劇”として、破綻はしていないと思えるから、なおさらです。・・・さぁて、どう戦い抜くかな?(ぐっすん。)

【わたしの失敗】富野由悠季さん 

[2007/05/15] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 もうこのブログの読者の皆さんは、ほとんどご覧になってると思いますけど、一応ご紹介しておきますね。

(1)意図伝わらなかった「Z」

「Zはアニメで大上段に高飛車なことをやろうとしすぎて、意図が伝わらなかった。“おもちゃ屋の宣伝番組”で、そこまでやるか、ということ」
「第一作の時には自分の技術がまだ低かった分、ある意味、虚心坦懐(たんかい)にキャラクターと向き合っていたのかもしれない。それに対してZは『作為』です。俺には作れる、と思ってしまったんでしょうね」

(2)独立して崩れた自信

虫プロでの駆け出し当時を振り返って「強迫観念ですね。特に最初の三年間は一秒たりとも気が休まらなかった記憶がある」と話す。
その努力の末に得た「自信」が、フリーになって「うぬぼれ」と分かった。

「世間には怖い才能の奴がいるかもしれない。そう想像したら部屋から表に出て仕事をするしかなかった。そこで何回も向こうずねをひっぱたかれるような目にあわないと、自分の技術なんて上がるわけがない」

(3)路線転換図るも…監督降板

この経験は生きた。二年後に総監督を務めた「無敵超人ザンボット3」では、「企画の段階から局とスポンサーに対して『まず要求を全部言ってくれ』と。戦闘シーンは何分要るのか。武器は何種類出したらいいのか。人の言うことを全部聞いた上で、自分はその中にどこまで劇を入れられるのか。その実験をやったんです」。

(4)「ロボット物」との戦い

「スポンサーの言うことを全部聞けば、おもちゃを売るために話の四分の一は戦闘シーン。これでは刺激が強すぎて、作品として異常なんです。だから過剰な物語を入れることによって、物語と戦闘シーンを五分五分にしたつもりだった」
自らの作劇をそう振り返るが、一方で「観た人の中には戦闘シーンが残らず、意外だが『劇』だけが残った」。主人公が最後に自閉して精神崩壊する「Z」などの作劇を「子供にとって余りに過剰な物語だった」と反省する。同時に思う。
「物語は、おもちゃ屋さんが思うほど甘いものではない。なぜこのことがいまだに分かってもらえないのか」

 2年前の産経新聞に掲載された富野特集。(1)は当時新訳Zが進行中だったこともあって、『Zガンダム』当時の回想。(2)は時代を遡って虫プロ時代からフリーになった頃。(3)は『ライディーン』の途中降板から『ザンボット3』という時代。(4)は『Vガンダム』以後と、ロボットアニメについてのまとめ。

 時系列で整理しなおすと(2)→(3)→(1)→(4)になります。「私の失敗」という話なので、読んでいるとつらいものがありますね。「挫折」と「強迫観念」だらけのアニメ人生。(笑)
 「人の言うことを全部聞いた上で、自分はその中にどこまで劇を入れられるのか」の実験というのが面白いですね。今見てるところですけど、『ザンボット』は本当に“これでもか”だものなぁ。本当は、『ガンダム』も打倒ヤマトの実験みたいなところがありました。
 イヤだった続編『Zガンダム』を作らざるを得なくなったことも「強迫観念」を募らせたのでしょう。「Z以後、あのまま思いの丈だけを深めていったら、きっと僕は鬱病になって終わっていたと思う」という“思いの丈”はそのまま強迫観念に通じますね。

 そんな富野監督が、「これも高飛車なのかな」と苦笑できる境地を手にしてくれたことは本当に嬉しいです。しかし、自分でも「過剰な物語」と反省しているのには、思わずこちらも苦笑いしました!

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