スポンサーサイト 

[--/--/--] | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | TOP ▲

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

善良な市民さんは、なぜタコツボを見つけては急降下爆撃するのか 

[2008/11/20] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

宇野さんあたりはタコツボを見つけては急降下爆撃してるような気がするけど、アレは何なんだろう?

 「アニメ批評のタコツボ化」という話をしていた前のエントリー(「批評はうざい、面倒くさい」・・・とは私は言いたくありません。)で、ちょっとこういうことを書いたんですけど、頭の中でぐるぐるしてるので、とりあえずメモ。

 タコツボというのは、もう少しスマートな表現に直せば「島宇宙」という言い方もありますが。

  1. そもそも、なぜタコツボが生まれるのか、なぜタコツボに安住しようとするのか、なぜタコツボ批判はここまで反発をくらうのか?が彼の批評にはある。
  2. やはり宇野さんは世代的に90年代チルドレンで、オウム事件を見て、つくづくタコツボはまずい、と思ったクチ・・・である。
  3. このタコツボ化こそが、今の時代の文化的なクリティカルポイントだ・・・と彼は判断している。

 正直言うと、私にはそこまで『ゼロ年代の想像力』が読解できていませんが、こういうようなアドバイスをいただいたので、そういう理解の下に、ダメな富野アニメファンらしい連想ゲームを。

  • 地球の重力=いわゆる「大きな物語」
  • ユニバーサル・センチュリー=「大きな物語」の失われた中に人々が暮らす時代
  • 重力に魂を引かれた者たち=「大きな物語」の夢を忘れられない人々
  • ニュータイプ=「大きな物語」の失われた過酷な環境をサヴァイブするために適応した人々

 まあ、めちゃくちゃ荒いですが、概略こんなような話だとして。(笑)

 たぶん宇野さんは、“人類みんなをニュータイプに進化させなきゃならない”と、けっこう本気で思っている・・・のかも。

 で、意識としては、重力に魂を引かれた者たちを粛清するために、アクシズを頭上から落っことしている・・・のであったりするのかも。

 ただ、この例えだとどっちかと言えば、それぞれが引きこもっているタコツボは、“地球”というよりは、宇宙に投げ出された人類が、そこで子を産み、育て、そして死んでゆくほかはない、“スペースコロニー”のほうなんではなかろうか、と私などは思ったり。
 そこにはいくつかのラグランジュポイント(サイド1・文学、サイド2・美術、サイド3・音楽、サイド4・映画・・・そして一番新しい建設途上のサイドにコミックやらアニメやら・・・)があって、ポイントの周りをぐるぐるとしながら、その各サイドの中でまた喧々諤々とやりあいつつ、それぞれのバンチ(コロニー)ごとに引きこもっている、・・・みたいな。(笑)

 で、もちろん地球上でぬくぬくと既得権益にぶら下がっている「エリート官僚」みたいなのがいるのもたしかだと思うんですよ。よく分かんないけど文壇とか画壇とかの偉い人とか、たぶんそんなの。人類のほとんどが今やスペースコロニーで子を産み、育て、そして死んでゆく時代なのに、そういうのに全然関係なく、のほほんとしていられる一部の人たち。その価値観こそが、永遠不滅の権威だよっていうスタンス。
 そういうものたちは「私、善良な市民が粛清しようというのだよ!」っていう思想なのであれば、それは分からないでもないのでした。

続きを読む
スポンサーサイト

「批評はうざい、面倒くさい」・・・とは私は言いたくありません。 

[2008/11/18] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 「批評はうざい。面倒くさい。」とは私は言いたくありません。

 何の話かというと、例えば“アニメ「批評」の問題は、アニメ史と切り離しては語れない気がする”という記事の中で、東浩紀さんについて、次のように言及してしまいました。

 「世の中が“データベース”的になってるということを書いてた頭のいい人の頭脳が、けっしてデータベース的ではないらしい」

 こういうのを(自分でもいい加減なこと書いてるなーと思いつつ、ついうっかり手抜きをして)書いてしまうと、「東さんの言う“データーベース”とは、そういう意味ではないですよー」というご教示をいただける。やっぱり私は読解が粗雑ですねー。
 ただ、私などはどのみち“観客”という立場から、アニメにも、批評にも、楽しく接していければそれでいいやと、しっかり思っちゃっています。つい「面倒くさいなぁ」と、つかの間、頭をよぎったりもしちゃいました。

 せっかくご教示いただいたのに、大変失礼な本音を吐露しております。申し訳ありません。

一生懸命なにか考えて書いても、ちょっとした名前のミスとかなんとかで鬼の首でも取ったように非難する、そしてそれを「見識」だとカンチガイしている読者が多すぎる

 ここでふっと思ったのは、アニメ批評のタコツボ化を嘆いた東さんも、「面倒くさいなぁ」という本音をついポロッと漏らしたんだろうなぁということでした。まあ裏返しみたいな話ではあるんですけど。

 自分の読解力のなさを棚上げして言っちゃってますが、とりあえず地頭の悪いやつ、向学心のないやつ、リテラシーのないやつは読んでくれなくてもいい、とはっきりそう思う人は、そういうふうにやっていただければ、それで全然かまいません。だけど人のタコツボを笑う自分がまた、タコツボにハマっているという構図になっちゃうと、あまり格好がよくないですね。・・・総タコツボ化状況のポストモダンが云々、とか、そこからまた面白い話は展開できるような気もしますけど。(・・・と、また粗雑なことを。 笑)

 上手く言及できないんですが、職業としての「批評家」というのと、「批評」そのものには、微妙に差異があると思うんですよ。批評家を職業軍人にたとえると、総タコツボ化の塹壕戦が膠着している場合、目覚しい手柄こそ立てられないが、そこに常に戦線があるという意味では食いっぱぐれがない。どこかの戦線で和平が結ばれたりすると、違う戦局にわざわざ新たな戦線を求めたりするのが、プロの業の深いところでもあったりするのかもしれないです。
 あるいは、泥をなめるような思いをして小さな丘一つをめぐる地道な塹壕戦を戦ってきたのに、突如その頭上で空中戦をはじめられるのはたまらん、という気持ちも分かる。・・・気持ちが分かるだけじゃなくて、レイヤーの違う空中戦だけでは戦局は決まらないですよね。うんうん。

 誰のため、何のための批評なのかという話がすぐに脱臼してしまうのは、戦略目標(大きな物語?)がない中で局地戦ばかりが続いているからなのかもしれないですね。『スカイ・クロラ』の中で見た、見世物としての戦争(というゲーム)のようなもの? あれが空中戦オンリーだったことは案外示唆的だったのかなぁ?

 こんなの「そりゃそうだよ、当たり前じゃない」って空中戦のレイヤーにいる批評サイドの人は言われるのかもしれないですけどねぇ・・・。

続きを読む

やはり私は“一人の観客”として富野監督のファンです 

[2007/01/05] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 今年は正月から、モニターを前にして思わず小躍りしたくなるぐらい、スパッと気持ちいいコメントをいただいたので、記事にもしておきますね。

ところで富野由悠季氏にはふたつの面があります。監督と批評家です。
一般的にいって、批評家は、作品をカウンターカルチャーとかサブカルチャーとかいって分類します。一方、監督は分類を越えた普遍的な作品を目指します。
富野氏は批評家としては、分類を混乱していると思います。しかし、これは監督としては当然です。なぜなら監督は分類を越境しなければいけないからです。
オタキングは批評家です。脚本を書いた『トップをねらえ!』という作品はロボットアニメとスポ魂を掛け合わせる、という発想から企画されたそうです。逆にいえば、分類をする批評家ならではの発想です。
つまり監督と批評家は両立しないと思うのです。僕の感じる「反感」はここにあります。
h-nishinomaruさんのコメント


 個人的な感想かもしれませんが、「やったー!」ってぐらい嬉しいコメントです。なんか、体重が12kgぐらい軽くなったような気分♪
 そうですね、富野由悠季という人には監督と批評家の二面性を見ることができる。そして物事を分類して考える批評家としては混乱気味でダメな人だけど、分類を越境したものを創造すべき監督としては、それはそうあるべき姿勢だとも言える。
 h-nishinomaruさんが反感を感じると言われた、両立しがたい二面性という指摘で、私はむしろ、とても楽になったような不思議な気持ちがします。
 今日はルロイさんのところで、「“なんとか雑念を振り払って無心に物語を受け取りたい”と願いながら、実はなかなか果たせていなかったりします」などとコメントしてたりしたのですが、私の願いは作者と肩を並べるような創作者の視点でもなければ、作品を鳥瞰する批評家の視点でもない。「毎度うだうだ下手な長文を書き綴っていて何だ」って話ですけど、以前に珍しく御大への不満を書いたときにも触れたように、“一人の観客”として、作品の中で表現されたことだけを観たい、そこに没頭して味わいたいというのが、たぶん私の最大の願いだと思うのですね。・・・だから私は監督としての富野由悠季という人だけを見たがってるわけだけど、それがなかなかうまく果たせないという話。
 ああ、そうそう。私がオタキングのほうに抱いてるイメージは、以前に書いたこのへんが原風景だと思います。(→「王立宇宙軍 オネアミスの翼」)

「しかし、このページを見ている君も僕も、すでに観客ではない。」
「君と僕は、この富野監督の発言を聞いてもいい世界にいる。すなわちそれはアニメ界というムラだ。」


 私が「反感」を感じるのは、むしろこっちのほうだという、そういうことです。そんな自分の立ち位置がよく分かったということが、とても嬉しかったんだと思います。
 それでもよく分からないのは、富野監督自身が批評家気取りで喋っているのか、言葉を見聞きしているこちらのほうが、(彼は、あくまで“一人の監督”として言葉を発しているのにもかかわらず、)彼の言葉を批評家のそれとして聞いてしまっているのかというようなこと。モノーキーのkamimagiさんが、「ともかく、ファンは語り手に偶像を求める」と言っていたことなんかも(いろんな意味で)思い出したりしました。
続きを読む

カウンターカルチャーとサブカルチャーとオタク文化  

[2007/01/04] | 「おたく」な話 | トラックバック(2) | コメント(8) | TOP ▲

岡田斗司夫は『オタク学入門』(1996)でカウンターカルチャーとサブカルチャーとオタク文化のみっつを明確に区別して述べていて、おおきな示唆を受けました。いまでも、これをちゃんぽんにしている人がいて……、とっとっとっ。


いつのころから新発売2: 啓蒙主義者 岡田斗司夫


 そういえば、私もちゃんぽんによくなるので、いい機会だと思い、またWEB上で“にわか勉強”をしてみました。
カウンターカルチャーとは - はてなダイアリー
サブカルチャーとは - はてなダイアリー
オタクとは - はてなダイアリー
サブカルチャー - Wikipedia
サブカルチャー - Wikipediaの「類語」
おたく - Wikipedia

 こんなあたりをちゃんぽんに眺め回して考えてみたところでは、“はてな”では、サブカルチャーは「カウンターカルチャーの一つ」と明言しちゃってるのですが、Wikipediaでは混同されていることを踏まえてニュアンスの違いへの言及が多く、その代わり曖昧なような気がしました。
 それで、なるべく差異を最大化する方向に絞って読んでいくと、この3つは“カルチャー”への着目点の違いという捉え方が一番いいのかな、と。つまり、反主流・反体制的な「価値観」を重く見るのがカウンターカルチャー、マイナーな娯楽という「目的」面を重く見るのがサブカルチャー、要は嗜好の「対象」を重く見るのがおたく文化なのではないかと。(それらは実体としては結果的に重なり合う部分もあるが、明確に区別されねばならない部分も当然ある。)
 この中で気になったのは“サブカルチャー”で、すると“ハイカルチャー”(いわゆるゲージュツ?)ってのはもっと高尚な目的を持ってると、つまりそういうことになるらしいですが、そこでの“メジャー/マイナー”って言い方自体がかなり怪しいですね。(ポピュラー=メジャーではない点が要注意!)
続きを読む

6万ヒット御礼 そんなことよりいよいよ明日だ!? 

[2006/03/03] | ブログ日記 | トラックバック(0) | コメント(6) | TOP ▲

この間5万の報告したばかりで、
嘘のようですが
カウンターが6万を超えてましたので、
いちおう書いておきます。
まだ少し余波はありますが、
ほぼ平常運転のペース(笑)に回復しつつあります。

報告終わりっ!

追記では、いただいたコメントについて思うこと等を。
続きを読む
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。