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70万ヒット御礼と、コミュニケーションコスト云々の話 

[2009/10/03] | ブログ日記 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 このブログに設置してありますカウンターの数字が70万を超えました。先月の記事数が最低記録更新の4回というタイミングでこういう節目が来るというのも、何とも間が悪いのですが、仕方ないですね。(苦笑)
 もっとも、前回65万ヒットのお礼を申し上げてから約3ヶ月でありまして、60万から65万が4ヶ月かかったのから見れば、少しは元のペースに戻ったという意外な結果です。

サマーウォーズ完全設定資料集

 この間に多くアクセスをいただいた記事は、「サマーウォーズ問題」ってどんな問題なんだろう?(8/21)ぐらいでした。はてなブックマークで取り上げていただいたり、ニュースサイトにリンクいただいたりしたおかげであります。
 考えてみるとちょうど1年前に押井守監督の「スカイ・クロラ」も公開初日に見に行って、これも多くの人に読んでいただけましたから、要は旬な映画をいち早く見に行って感想を書いただけじゃないかという話もないではなく。
 ただ、押井監督の「スカイ・クロラ」より、今度の細田守監督の「サマー・ウォーズ」は、“応援”したいという気持ちが少し多めだったんで、見てきた直後の感想ではそういうフィルターがかかってたんですが、やっぱり気になったことには(おぼつかないなりにも)触れてみたほうがいいということなんでしょうね。

 9月には、富野由悠季監督のショートフィルム『リング・オブ・ガンダム』がGyaOで配信されたので、これこそ全力で応援したいと思って、「毎日観ましょう!」、「みんなで観ましょう!」、「何度でも観ましょう!」と(少ししつこく)書いてみたんですが、どうも手ごたえは今ひとつでした。
 想像力を刺激される短編で、物語面や演出面では見事な作品だと私は確信しているんですが、まあ正直に気になったことといえば、皆さんそうでしょうけど人物のCGですね。ただあれは、(実在のタレントをモデルとすることとか)製作の“条件”みたいなものが何かあったのかなと個人的には思ってます。

 このブログも書き始めて5年目になるんですが、最初はただ好きなアニメのこととかを漠然と書いていくつもりでした。それで昔好きだったガンダムのこととかを書いているうちに、自分が好きなのは『ガンダム』じゃなくて富野由悠季という人の作る作品だということがだんだん自分で分かってきて。
 それまではむしろ食わず嫌いだった富野監督の小説なんかも読んでみたりするようになってきて、どんどん“富野スキー”の道へと入り込んでいったというような経過があります。

海のトリトン コンプリートBOX [DVD]

 念願だった『海のトリトン』のDVDボックスも入手しまして、その感想なんかもぼちぼちと書いていきたいと思っていたりもするんですが、どうも根っから好きで書いていると、むしろ富野作品について触れた記事はあまり注目してもらえないというところがあるんですよね。
 それでも自分が書きたいことを書いているブログなんだから、読者が多かろうが少なかろうがかまわないと言っちゃえばそれまでなんですが。
 とにかく思いを伝えることができないのは、自分の力不足なんだろうなぁと思うと、少し哀しくなります。

正直に言うと、すべての観察対象(とコミュニケーション対象)をエネルギー全開の解像度でまなざし続けたら、僕は廃人になってしまうと思います。美術館で疲労困憊するようなノリで日常生活を過ごせば、間違いなく神経衰弱に陥るでしょう。

 それはそれとして、シロクマ先生の上記の記事は、インターネット上でのコミュニケーションコストについてのお話だったんですが、これを読んだときに私が思ったのは、アニメを観るのなんかでも同じだなということでした。何でもかんでも観るもの全てをエネルギー全開で観ていたら、へとへとになってしまいます。

 このところ、それは何となく思っていたことではあって、例えば『バスカッシュ!』とか、『真マジンガー 衝撃!Z編』とか、このへんの現在進行形のロボットアニメもフォローだけはしているんですが、感想を書いていく気力がなかったんで、ただ観てたんですね。

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「共存と関係の空間」という言葉はすごくいいと思いました。 

[2008/04/28] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(4) | TOP ▲

 いろいろ皆さんに、いい言葉を聞かせていただいて、いろいろなものがとうとうと自分の中に流れ込んできているのに、うまくまとめられません。
 きちんとまとめることが出来る自分なら、一つ一つの言葉に明快に向き合うことも出来るんでしょうけど、それが上手に出来ないので、こうしてまとまりのないままにメモ的に書きとめて、少しでも整理したいと。

いやぁ、でも、コメント欄って独特の雰囲気あるかんなー。
なんたって、人の書物に勝手に書き加えちゃうわけだし。

 どうもそうなんですよ。今、生活に疲れてる(笑)せいもあるけど、どうもひとさまのブログのコメント欄にコメントするのが何故か億劫で。

[*ブログ][はてな][なんとなく][あるある]コメント欄にコメントするのって、微妙に体力気力を消耗する。ブコメは自分向けメモだけど、コメントは相手に向き合うからなんでしょうかね。

 それで、こんなふうにブクマコメントしました。

 “関連して”というか。2ちゃんねる的な対話、あるいはブログでも、コメント欄での対話、ブクマコメントでの対話、トラックバックでの対話。同じインターネットでの対話形態でも、そうしたものそれぞれの微妙な性格の違いという指摘が、どうも興味深く。

他人様、余所様、という言い回しを、最近とんと聞かなくなりました。個性の時代と言いますが、そもそも自分がどんな存在であるかを自覚しないでいるのに、個性というものが成立するものでしょうか。

 インターネットは本来他言できない(しにくい)内面的問題を、低コスト低リスクでオープンにして互いに共感できる場だけど、メリットとデメリットがあるってことを書いたわけですけど、反論(っていうか私の感じでは「対話」)の性格っていうのも、それと深い関係がありますよね。
 そうして、ネットを眺めていると“他人様”という言葉と“他人事”という言葉さえ、混同されてしまっているんじゃないかという状況があり。たとえば、微妙な性格の違いを省みることなく、どこででも2ちゃんねるモードの対話(それは対話というよりバトルかも?)をしている人を見かけることが多く。

 他方で、“ブロガー vs 論壇の人”の話は、自分の野次馬根性に辟易として、思わず書き留めちゃったものでした。でも対話しているお二人が、互いの立ち位置の違いに苦しみながら、噛み合わない応酬をそれでもなんとかやろうとしている様子を、ついつい興味深く眺めてしまったのは、その道の達人のような人たちでも、こういうコミュニケーションの齟齬に戸惑うこともあるんだなぁと。

 zsphereさんに言及していただいた話を、上の話に無理やり結びつけると、達人の皆さんに感心したのは、齟齬に戸惑いながらも対話の努力は続けていて、(多少は優越感ゲームの側面もあったかもしれないけど)共有できるコミュニケーションのマナーを見出そうとする姿勢は揺らいでないように見えたことでした。これは見習いたいところです。

滅私奉公の公私の論理では、公というのは結局、単に、レベルがひとつうえの私でしかない。そこには質的差異などない。しかし公共としての、パブリックとしての公というのはそういうものではなく、共存と関係の空間だ。同化の空間ではない。

 zsphereさんが引用しておられた公共性についてのこの言葉、私も大変印象に残りました。
 “鍵コメさん”の言っておられたことも、そのへんと繋がると思うんですけど、インターネットの不都合なところは、(普通はそれは長所として語られるんですけど)見たくないものは見ないで済ませることが容易だってところもあるんでしょうね。そうやって、適当に自分に都合のよいものだけを切り貼りして繋ぎ合わせて、身の丈に合わない大言壮語を無頓着にしてしまう。(そういうところが“セカイ系”的な自意識の肥大化を呼び込んでしまう。)

 ただインターネットも所詮はツールに過ぎないはずのもので。暗黒面の2ちゃんねる的な同調圧力(「空気嫁」)が強く働きすぎると「同化の空間」になってしまうけれど、使いようによっては「共存と関係の空間」にだってできるはず。・・・ただ、それには、(正確に理解することなどは不可能だとしても、それでも、)“他人様”と自分の双方の立場や気持ちを思いやろうとする想像力が欠如してしまってはならない。決して楽ばかりもしていられないし、気力体力も消耗します。(気力体力が充実してないときには、むやみに人に関わることを遠慮するのも、一つのマナー?そのへんは微妙・・・。)
 そういうふうに、上手く使いこなすことが出来れば、インターネットとかブログとかいうツールも、自分を磨き、向上させるために充分役に立つものにできるんじゃあないでしょうかね。(まあ、この言いざまは、半分は自分に当てるムチみたいにもなっちゃってますけど。 笑)

うまく言えないけど、互いに異なる価値観があっていい、という話。 

[2007/10/17] | 雑記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

本当はわかっているくせに - 背後からハミング

 こう見えて、私もときどきは現代アートとか見たりするのは好きなほうなので、「わからないと言う以上は、わかりようがない」っていうのが、何とも身につまされる話で。

それは、「議論しよう」と持ちかけながら、その実は論争を楽しもうとする姿なのです。

 そういう“くねくね”としたコミュニケーションっていうのも、互いに(暗黙にせよ)合意づくであれば、アリかもしれないとは思いつつ、片方は真剣な思いを伝えようとしているのに、他方は優越感ゲームをしているだけなのであれば、それは不毛であり不幸なことだよなぁと。

「絶対的な価値」というものがあるという前提で話をしているから、こうなっちゃうのかな?互いに異なる価値観があっていいという条件下のほうが、むしろ議論は有意義になるような気がする。

 それで、はてブのコメントでこう書いたら、どなたかが、そのコメントに“はて☆スタ”を付けてくださったので、どちら様かと思ったら、それはブログ主ご本人様だったので、思わず嬉しくなりました。(笑)
 とかく批判も多い“はて☆スタ”ですが、こういうコミュニケーションのツールとして機能することもあると楽しくなります。(近ごろブクマコメントを少し考えて書くことが、以前よりはわずかながら多くなりました。)

「いい大人が、アニメやゲームやフィギュアになぜあんなに熱中するものか、わからない」というような、理性の皮を被ったオタク叩きの記事を見るにつけ、私は思います。

「本当はわかってるくせに。そんなことわかりたくもないと思ってるってこと」

 yellowbellさんの元記事は、こう結ばれていて、≪なるほど、たしかにそのとおり。≫と思っていたところで、ちょっと違う観点の記事が目に止まりました。

キモオタの虚像が流通する背景に関して----粗悪なリアリティに抗する事の現代的困難さ - シロクマの屑籠(汎適所属)

 たしかに“DQN”としか言いようがないような人たちに、現世でもネット上でも出くわしてしまうことは少なくないわけで。

DQNという言葉を用いる時、私達はDQNという単語に込められた様々なステロタイプ(粗野、後先を考えない、常識知らず、などなど)を念頭に置きながら、彼らの集団を眺めやるわけだ。この時の私達には先入観が拭いがたく宿っていて、対象となる個人がどうであるか、DQN文化圏の内側の個々のコンテンツがどうであるかを忖度することはあまり無い。

 シロクマさんの、この反転したものの見方には、≪こりゃ一本とられたなぁ≫と唸っちゃいました。もちろんシロクマさんは、DQN文化圏を理解せよと言っているわけではたぶんないと思います。「いちいち全部の文化圏についてつぶさに調べてコミュニケーションしてから判断する・発言することなど、どのみち不可能に近いのだ。そんなコストを支払える個人などそうそう存在するわけがない」と認めたうえで、閉じたコミュニケーションの環の中にだけいる限り、簡単にイメージ操作されてしまう私たちの愚かさへの警句として、シロクマさんの記事は記されたものなのでしょう。

 私なども、本当に「コミュニケーションの適応レンジ」は限りなく狭いと言うか。世間様から見れば“アニメオタク”。さらにそのカテゴリーの中でさえも“富野信者”とレッテル付けされても有効に反論し得ない自らの姿というのをときどき痛感いたします。
 自分が「好きなものはどうしたって好きなんだもの」というのを曲げられない部分があるように、他人にもそういうものがあってもおかしくない(むしろ、何かしらはあるんだろう)という僅かな想像力があれば、(私は議論好きではないつもりですが、)価値観の異なるもの同士のコミュニケーションでも、けっこう楽しめる場合もあると思うんですけどね。
 相手に自分の思いが通じないのは悲しいことなのですが、自分には未知の面白さを教えてくれようという誠実さが分かる人と出会うことができれば、それだけで私は嬉しくなるほうです。まあ、その誠実さがどうしても感じられない人に出会ってしまうことも避けがたくあるわけで、そうしたとき私たちは、ついつい相手が“DQN”だったとあきらめるしかなくなってしまうわけですけどね・・・。
 私も富野アニメがどうして好きなのか、自分でもうまく説明できないところはありますから、「支離滅裂なことを言ったり説明能力のない人間」という意味ではDQNの一員なのかもしれませぬ。(笑)

「サバイブする」という言葉 

[2007/06/26] | 随想系 | トラックバック(1) | コメント(3) | TOP ▲

 h-nishinomaruさんも言ってましたが、『機動戦士ガンダム』の企画時のアイデアの根っこには、宇宙版『十五少年漂流記』というモチーフがあったんだそうです。(→参照『銀河漂流バイファム』)

二年間の休暇〈下〉―十五少年漂流記 (偕成社文庫)

 ご存知『十五少年漂流記』は、SFの父と称されるジュール・ヴェルヌが(なんと)1880年に発表した冒険小説で、無人島に漂流した少年達が力を合わせて生活していく物語であります。(そういえば、ヴェルヌ原作の『海底二万マイル』を下敷きにした、『ふしぎの海のナディア』をGyaOで観ています。そのうちまた、気が向いたら感想を書くかもしれません。)
 まさに文字通りの“サバイバル”をテーマとした作品というわけで、ガンダムの次回予告の決まり文句が「君は、生き延びることができるか!」だったのは、その名残もあったんでしょうね。

 で、「サバイバル」という言葉のお話。

サバイバルは人間が文明や人間社会から隔絶された状態もしくは文明の恩恵を十分に享受し難い状態で、生存しつづける事である。この状態は、当人が死ぬか、文明社会に帰りつくまで続く。またこれらは、生存欲求という人間の本能に強く訴えかけるため、小説や映画・ドラマ等の題材としても人気がある。

サバイバル - Wikipedia

 最近、“サバイブする”という言葉が、小説や映画やドラマや、・・・とりわけアニメとか、むしろそういう架空のお話から、ちゃんと早く卒業して、厳しい世の中の現実と向き合いましょうね、というような意味合いでよく使われているような気がしたんだけど、その趣旨に賛成かどうか以前に、言葉の使い方の部分で妙な抵抗感があるな、と思って。・・・英語の原義に照らすとどうか、じゃなくて、やっぱり“サバイバル”するって言うと、上記のような意味だと思うよな、ということで。

 架空のお話と、世の中の現実のことは、まあ置いておいて。厳しい世の中の現実ときちんと向き合うことを、そのままサバイバルと捉えることは、一見すごく的確な比喩に思えます。
 ただ気になるのは、それってつまり、今の世の中は「文明や人間社会から隔絶された状態もしくは文明の恩恵を十分に享受し難い状態」に限りなく近いってことなのか、と。

 文明とか、社会のシステムとか、今はそういうものが全然信用できない時代だ、ということが言われているんだろうとも想像は付くんですけどね。
 「現実に帰れ」と言われてる対象の人たちっていうのが、コミュニケーションを上手にできない人たちだと一応仮定すると、その人にとって外部の“社会”って、その人という“個”を取り囲む“全部”に思えちゃうんじゃないかと思うんですよ。その中での「サバイバル」って、まさに“個”としての生き残りを賭けた、熾烈なバトルロイヤルのようなイメージにしかならないのではないかと私は危惧するんだけど、そういう理解でいいんでしょうかね?

 サバイバル状態は、当人が死ぬか、文明社会に帰りつくまで続く。帰りつくべき文明社会の有無を疑っている余裕は確かにないわけなんだけど。

 これは「用語は本当に的確なのか」という話ですけどね。言葉どおりとすれば、サバイバルの第一歩は“安全な場所・空間の確保”。そして最も注意すべき事は、“的確に状況を判断すること”。(最もすべきではない事は、本能の赴くまま、直情的に行動すること。)そして・・・こうハマると面白いですね。

仲間と一緒に居る事が、個体にとっての生存率を飛躍的に押し上げる要因となる。

 架空のお話とはいえ『十五少年漂流記』では、少年たちが力を合わせることで、サバイブできたわけなんですよね。だから、もし“サバイブせよ”という言葉を向けられる対象が、コミュニケーションを上手にできない人たちのことなのであれば、その言葉が“個”としての生き残りを賭けた、熾烈なバトルロイヤルのようなイメージには伝わらないようにする配慮が要るんじゃないかと私は思うのですよ。

 違うのかなぁ。言われていることは、安全な場の確保→「引きこもるな!」/状況の判断→「まず行動せよ!」/仲間と一緒に→「群れるな!」・・・なんですかねぇ。
 だとすれば、“サバイブする”という言葉でない言い方を考えたほうがいいのではないかとも思ったのでした。

以下追記

 書き終わって風呂に入って、ちょっと考えたら、「やっぱ違ったな」と思ったので、あわてて追記。(笑)

 “サバイブする”という言葉で言われているのは、サバイバルの要点である“的確に状況を判断すること”の部分で、人々が引きこもっている場所は、“今はもう安全な場ではないですよ”という、そこが一番肝心なところなんでしょうね。そこは外しちゃ駄目なところでした。
 まあ、それでもキャッチとしてはともかく、用語として最善のものであるのかには、引き続き半分首をかしげているのでありました。

「誰もひとりでは生きられない~♪」 

[2007/05/02] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 相変わらず『ガン×ソード』とか『蒼穹のファフナー』とかをネットで眺めながら、がっつり書きたいような感想も盛り上がってこずにボンヤリと過ごしております。自分がどうして富野アニメには波長が合ってしまうのか。単に多く見ているとそういう体質になってしまっているのか、オッサンなので、昔から馴染みのあるものにしかアンテナを合わせられないのか。

 のりのりさんから三連打でコメントをいただいても、気の利いたお返事もできずに申し訳ないです。聞かせていただいたことを考えながら、また続きを見ていますので、何か思いついたら、もちろんまた書かせていただきたいと思っているのですけどね。

 「三連打」と言えば、psb1981さんのカテジナ日記での三連打は、けっこう堪えましたよ。(笑)
 個々に読んでいるときは、それなりに対応もできるジャブパンチなんですが、三連打されると身に堪えるボディブローかもしれんです。
 “豊かさがもたらす、退屈”から逃れるために、“アニメをネタにブログで政治・哲学ゴッコ(ニュータイプ論とか)に興じる私達”は、“TVモニターの向こうの「他人」の過酷な人生(ドラマ)に自らを重ね合わせすぎる”、――うわ、これは痛いところを!私が悪うございました。ゴメンナサイ!(笑)

 ほんとにね、言われるとおり、“人生の意味や目的”を疑う必要、探し求める必要もないような過酷な状況(例えば戦争を舞台としたドラマ)に、ただ逃げてちゃダメなんだよなぁ。人生の意味や目的は、うんざりする日常の中で自分自身で探さなきゃならないという指摘はけっこう厳しい。
 ただね、そう思っていると、頭の中で「できればやっている!貴様に言われるまでもなくな!」とブライトさんの声が聞こえてきたり。「僕だってできるからやってるんじゃないですよ」とアムロの声が叫び返してみたり。こりゃあ重症ですわ。(苦笑)
 アムロはフラウ・ボゥが背中を押してくれたからよかったですよね。私なんか、過酷な状況に実際直面したら、そこからも絶対逃げちゃうだろうなと思います。(いい年こいて、“いざというとき”のイメージトレーニングしてるんですとか口にしたら、ギャグになっちゃうだろうしなぁ・・・。)

 そこで「ボクの周りには背中を押してくれるフラウ・ボゥいないもん!」と逆切れできる若さもないのが哀しいところです。あるいは、(自分なりには)過酷な状況に一生懸命向かって行っている間に、気が付くと「あの人は違うのよ」とフラウに見限られちゃってたアムロの悲哀をふっと思ってみたりとかね。
 って言いますか、それでも「ララァとはいつでも遊べるから」とアムロが虚空へ飛ぶラストシーンの背景に「誰もひとりでは生きられない~♪」という『めぐりあい』の流れていた『めぐりあい宇宙編』って、やっぱり凄かったですね。(ぉぃぉぃ)

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 (笑)どうもこうも、私はこういう話をはじめてしまうと留めようもなくて。善良な市民さんのコミュニケーションコスト論とかを読んでいて、“人間は「コミュニケーションによる快楽の備給がある程度ないと、人は耐えられない」”という言葉を読んでさえも、頭の中に『めぐりあい』が響いてきちゃうんだから、実際かなり困ったもんです。その“コストとベネフィット”論で言っても、どうもアニメを見て得られるベネフィットが個人的には大きいんで、本当にどうもこうも。

 ただまあ、アニメを見るにしても、その見方だとか、感想をこのブログに書くということだとかを考えると、自分が本当に求めているものは何なのか、それに対しかかる費用、手間、時間。どれが見合うものなのか、どういうものは自分的に“赤字”(いわゆる過剰適応を含めて?)なのか、いろいろ考えるべきことはありますね。――これ、本当は「自己防衛のためのプライドを捨てて素直」に必須ベネフィットのことを考えなきゃ、という話なんだと思うんですけど、私なんかはとりあえず「コミュニケーション黒字」の安定確保からはじめないと。(アリャリャ、いやはや・・・)


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