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宇野常寛さんの「富野由悠季」観 

[2009/12/16] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 最近、twitterなどというものを始めてしまって、そのへんでブツブツつぶやいていると、何か話したいことは話してしまったような感覚もあり、気がつけば12月ももう半ばなのに、今月初めての記事じゃあるまいか。(笑)

 だいたい12月というのはあれもこれもと気ぜわしく、1年で一番嫌いな季節といってもいいのです。定番BGMは中島みゆき『十二月』 on 「グッバイガール」(歌詞はこちらに。)。

 何しろ書きかけている記事はいくつもあり、たいした内容でもないのだけど、書き上げようという気力が湧かないのであります。

 twitterでは氷川竜介さん藤津亮太さん小黒祐一郎さんの話などをいつも興味深く読ませていただいてますが、最近、宇野常寛さんが富野アニメに言及されたツイートが面白かったので、今日はちょっと勝手に編集してメモしておこうかと。

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「サマーウォーズ」のモヤモヤを「ヱヴァ破」で?<再構築(リヴィルド)の価値は> 

[2009/08/22] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(6) | TOP ▲

 このブログでは細田守『サマーウォーズ』は、あんな明るい娯楽映画なのに、どこかモヤモヤするのは何なんでしょうね、という話をしてたところです。(上手くまとめられませんでしたが。)
 今日はTOKIGAWAさんが、気になる記事を書いていて、また少し違う視野から話が出来る気がしたので、ここでコメントしてみます。

サマーウォーズ オリジナル・サウンドトラック ヱヴァンゲリヲン新劇場版 2009年カレンダー

「痛み」なんだ!! 「代償」なんだよ!!! サマーウォーズに足りなかったのはこれなんだ。だから、胸が躍らなかったんだよ!!

 私は『ヱヴァンゲリヲン:破』を観ても、また違う感じでモヤモヤしてたので、これには何だか同意できないなーと思って、その理由を考えてみました。
 それで、むしろ私が『ヱヴァ破』でモヤッとした理由が分かった気がしたんで、下記のようにブクマコメントしました。

ヱヴァ破はエヴァ以降に生じた「痛み」のバーゲンセール状況(ヲタクホイホイ)にカウンターを撃たねばならぬはず。アニメで「安全に痛い」という問題をメタ的に意識させられるのはサマーウォーズのほうかも。

 新劇場版『ヱヴァ破』が、エヴァンゲリオン以降の状況に対してカウンターを撃ってないかというとそうではなくて、いろいろ仕掛けていると思います。ただ、あちこちで絶賛されている感想なんかを読んでいると、そのカウンターは「機能している」のか?という疑問があるんです。
 もちろんシリーズはまだ続くので、持ち上げるだけ持ち上げておいて落とすという伝家の宝刀メソッドが抜かれたときに、このへんで仕掛けられていた埋設地雷がどんなふうに炸裂するんだろうかという期待も含めて、判断は保留中です。
 何ていうか、クリエイターといえども芸能者であって、エンドマークを打つその瞬間まで、観客をスクリーンに引きつけておかなくちゃならないというのは正しいと思うんですよ。とてもじっくりした構えで納得の行く作りをやってるみたいですから、続きがすぐには出てこないということもあり、この間にあれやこれやと期待が盛り上がるだけ盛り上がるという社会現象も、芸のうちです。

目的のために自分の身を削って、邁進する。その必死さを見て、人々の心がようやく震えるんだ。

なのに、ないんだよ。サマーウォーズにはそれが。キングカズマがボロボロに傷ついても駄目なんだよ。健二や夏希や佳主馬が傷つかなくてはだめなんだ。重くないんだよ、軽いんだ、サマーウォーズは。ずしんとくる重さが全然足りないんだ!!

 『サマーウォーズ』は細田監督の旧作である『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』を下敷きにしているんで、機会があればぜひ観てみてください。まるきりその問題に向き合っている作品でした。(ネタバレになりますが、デジモンを操る少年たちはクライマックスでゲーム的な仮想空間の中へ入っていきます。)
 私は何で細田監督がこの作品を再構築しようと思ったのか不思議だったんですが、TOKIGAWAさんの指摘で逆に分かってきた気がします。まるきりそのまんまじゃん、と言われていた『サマーウォーズ』ですが、『ぼくらのウォーゲーム!』の肝であるその部分は再現されていません。対照する意図を明快にするなら、むしろ積極的に反転させられている、と言ったほうがいいかもしれません。

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情動とロジック 作家性と公共性 

[2009/07/19] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 長文のコメントをいくつもいただきましたので、本文でコメレスさせていただきます。TOMMYさんが「私の履歴書」富野アニメ体験プロフィール【前編】【後編】というような興味深い記事を書いておられたんで、私もそんなのを一回まとめてみたいんですが、こんな感じでしょっちゅう部分部分の富野アニメ体験を振り返っちゃってるんで、まとめるというと難しいんですよねー。w

ニコ子さん

>だからダンバインやイデオン、皆殺しではないけどゼータなど、「ああ分かる」って感じでした。 嫌悪感どころか共感、ですね。ところが、エヴァにはどうにも共感どころか観ることさえ拒否してしまう自分がいます。

>何でそうなのか、単に捕食シーンや人殺しシーンがイヤなのか分からないんですが、受け入れることは出来なかったんです。
それは多分昔の私と意識が変わったのでしょうね。

 このブログではよく、私よりずっと若い皆さんとお話させていただいたりするんですが、ティーンエージャーのときに観た作品には格別なものがあるというのは、否定できないですね。私の場合はイデオン発動篇に「共感」といいますか、魂を奪われた体験だけは、その後(アニメに関心を失っていた期間を含めて)繰り返し頭の中で反芻されてきた、無比のものです。

 思い出してみれば、その後太宰治とか、遠藤周作とか、青年期らしい青臭さでかぶれた作家というのはいろいろいたんですが、そういう感じ方の根っこになる部分はイデオンで育まれていた(笑)という事実は自分で否定しようもなく、厳然としてあります。

機動戦士ガンダムの時代 1981・2・22 アニメ新世紀宣言

 ただあれが当時の「アニメ新世紀宣言」とか「イデオン祭り」みたいなイベント的な時代の熱狂を伴っていたからそうなのかというと、多少はそうなのかもしれないんですけど、私はそういう第一世代オタク的なものは少し覚めた目で見ていたような記憶もあり、作品の、フィルムだけの力だけで圧倒的だったという思いがあります。

 自分の、そういう体験を踏まえて、エヴァンゲリオンに熱狂する世代の人たちの感性のあり方も理解するように努めてはいるんですが、越えがたい壁があるということも事実です。
 あるいは庵野監督は、当時むしろ距離を置こうとしていた第一世代オタク的なもの、そのものだったりしますから、そうなっているのかもしれませんね。

>他の作品ならOKでしょうが、トミノ作品はその背景を見、トミノの言葉を知らなければ理解するのは難しいと思うのです。

 んー・・・そこはどうでしょうか。昔はインターネットとかなかったし、上記のような次第で私はアニメ誌とかあまり読まない青少年でしたから、富野御大の言葉に接するようになったのは、正直な話、ここ最近のことなのです。
 自分だけの感動としては、作品さえあればよかったような感覚が私にはある(富野小説さえ遠ざけていましたから・・・)んですが、こうやってブログなんかを書くようになって、その感想を他の人と話し合うときに、どうしても微妙な差異があって、じゃあ富野監督本人は何て言ってたんだろうか・・・というような興味の持ち方のような気がしています。個人的には。

 私はアムロ・レイと同い年なので(苦笑)、今の私の歳ぐらいの時に監督は『ZZ』とか『オーラバトラー戦記』だったんだなー(参照:富野年譜)とたまに思ったりします。最近のお言葉は、聞いていてためになることもよくおっしゃっていますが、昔の発言なんかでは、けっこう読んでいても気恥ずかしかったり、アイタタタと感じるものもよくあって。
 ただ、そういうのを含めて(作品だけでなく)あの方の存在自体にちょっと感動するのは、いい大人になってしまって以降でも、真摯に生きていれば人間っていうのは成長できるんだなーと勇気付けられる好例というのが、実はあったりします。

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“神の手”考 ― 「皆殺しのトミノ」は手塚治虫の直系の子孫 

[2009/07/15] | 御大 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 諸事多忙で、なかなか更新できないでいます。過去記事へコメントいただいても、なかなかレスできなかったりして、いつも申し訳なく思っているんですが、『聖戦士ダンバイン』最終話の感想にいただいたコメントが、ちょうど今、考えていたことを記事にするきっかけになりました。

確かに地上に上がってからはグタグタ感があった。
しかし最終回が良かったので何も言う事はない
印象的な最終回でした。

ダイゴさんのコメント

理由はわかりませんが…最後の方で空母の艦長が「あれは…人のオーラが放つ光だ」というあたりから、優しい曲が流れる中、もうショウもマーベルもニーも… バーンも、いないんだと思うと胸が詰まってしまうんですよ。やはりどうしても忘れられない作品の一つです…私にとっても多分、バイストンウェルは…あの頃のバイストンウェルこそが、心のふるさとかも知れません。

通りすがりのコモンさんのコメント

 ウェルメイドに形式が整っているからといって「どうしても忘れられない作品」になるとは限らないんですよね。「最終回が良かったので何も言う事はない」というのも、そういうことでしょう。
 しかし、そう何度も皆でよってたかって「ぐだぐだ」って言わなくても、もう分かっていますから、まあいいじゃないですか。(笑)

日本動画興亡史 小説手塚学校 1 ~テレビアニメ誕生~

 で、ちょっと違う話題なんですけど、今、皆川有伽の『小説手塚学校』を読んでおります。その中に手塚治虫の『ある街角の物語』を見て、宮崎駿は手塚ファンをやめたというエピソードが載っていました。
 これがリミテッドアニメだからというんではなくて、「終末の美」を描いた悲劇的なラストに「神の手」を感じたのが許せなかったというんですよ。

 初期のストーリーボードでは、どうも物語の結末にもう少し救いがあったらしいんですね。それを「戦中派のセンチメンタリズム」と指摘した人があって、これを聞いた手塚先生は興奮し、『じゃ、全部殺しましょう。(登場人物を)全員殺しましょう』ということになったそうです。「そうすればリアリズムになりますから」と。
 お分かりかと思いますが、この部分を読んだ瞬間に、私なんかは、やっぱり富野由悠季は手塚治虫の直系の子孫なのかもしれないな!と思ってしまっているというわけです。(笑)

 この部分で皆川さんが“神の手”という言葉の位相をずらしながら使っているんで、流し読んでいたら一瞬「おや?」とひっかかったのでありました。

 「全員殺しましょう」という結末のほうが手塚にとってはリアリズムであって、それを救わなくちゃとするのは「戦中派のセンチメンタリズム」でなければ、ディズニーアニメのような「児童文学的」性格なんだけど、それこそ(手塚にとっての)“神の手”だと。

 ところが宮崎駿は悲劇的な結末をみたときに「背筋が寒くなって非常に嫌な感じ」を覚えたというんですね。 「意識的に終末の美を描いて、それで感動させようという手塚治虫の“神の手”を感じました」と。

 何が作家の「神の手」なのかという感じ方が、ここで逆の位相を示している。

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65万ヒット御礼申し上げます 

[2009/07/04] | ブログ日記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 このブログに設置してありますアクセスカウンターの数字が65万を超えました。6月の更新も月間最低記録タイの5回だけ(最低記録を更新したのは4月・・・)っていう低空飛行を継続中で、これまでだいたい3ヶ月に5万ヒットというペースを維持してきたんですけど、前回60万ヒットのご報告から約4ヶ月かかっての節目報告になっております。

 この間にちょっとアクセスの多かった記事というと一つしかありません。

たかが『感想』なんていうな!
『感想』は実は難しいんだよ!!

 難しさを骨身にしみて味わい続けている今日この頃です。(笑)

 特に今は『Zガンダム』のテレビ版を見直しているのでなおさら。

 あ、仕事の超忙しいモードは、ようやくひと段落しました。もう死ぬかと(苦笑)。
 それで『Zガンダム』の最終巻を何度か見直していて・・・なんかいきなり、矢も盾もたまらず衝動的に『星の鼓動は愛』を見てしまいました。

機動戦士ZガンダムIII -星の鼓動は愛-

 テレビ版の感想を真摯に書くんだって宣言してたのにねぇ。 ^^;

 その話を書き出すと、最終巻の感想が書けなくなっちゃうので、あんまり触れずにおきますが、やっぱりトラウマなのかなぁ。

 その代わりにトラウマ話のついでといっては何だけど、新劇場版ヱヴァンゲリヲン祭りにイマイチ乗れない自分というのを考えていて、どうもその、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品自体にそもそもあまりハマれていなかったからなんだろうと。
 それはどういうことかというと、私は人生で一番多感な時期に、『伝説巨神イデオン』のあの発動篇を直撃で食らっちゃっているんですよ。これはもう、絶対的なアニメ体験になっちゃっているんで。(あくまで個人的な話ですが。)

 ただ、「この体験を超えるものは絶対にないだろう」という確信を揺るがしたのは、『ブレンパワード』だけでした。(『∀ガンダム』よりブレンなんです。個人的に。・・・説明不能ですが。)

 だからエヴァの新劇場版がブレンぐらいにヴィヴィッドな展開をここから示してくれるなら話は別ですけど、とてもじゃないが結末まで見ないことには手放しで褒めるなんて無茶はできないんです。断然、保留。

 まあ、それはともかく。発動篇は「禁じ手」を使っちゃったという言い方があるんですけど、あれは一生懸命やってたらああなっちゃったと思うので、受け止めようはあったんです。
 だけど『Z』のテレビ版の結末も禁じ手だったんじゃ?・・・それも半ばは意図した禁じ手。そういうものは受け止めきれない。

 受けずにそのまま流すのは、どうもねぇ。

 考えてみれば、『Zガンダム』をもう一回見ても大丈夫じゃないかって思えたのは劇場版の新訳Zがあったからこそなんで。『星の鼓動は愛』を見ずにはいられなくなったのも、そんなに否定することじゃないのかもしれません。

 まるきり個人的な話に終始してしまって申し訳ありません。
 更新ペースは思うように上がらないかもしれないですけど、ぼそぼそと感想を書き続けていきたいと思いますんで、よろしかったら引き続きお付き合いくださいませ。

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