スポンサーサイト 

[--/--/--] | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) | TOP ▲

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

富野監督の「影響」というのでは格別なくってですね・・・ 

[2008/10/07] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 日経ビジネスオンラインでの谷口悟朗監督のインタビューについて、まとまらない感想を書いたところ、いろいろコメントをいただきまして、ありがとうございました。

 谷口悟朗という人に関心を持ったときに、私の貧しい知識の中では、富野由悠季という先人と比較対照してみるやり方しか知らないので、このようになってしまいました。私は職業評論家ではありませんし、読者の皆さんに自分の考え方、感じ方への共感を強いるつもりもありません。書くことを通じて考えているだけですので、異論反論、大歓迎であります。

 このブログの読者には多いであろう富野アニメ好きな人の中には、谷口作品に“近親憎悪”のようなものを感じると言っている人もいます。ですが私は少なくとも『コードギアス』は面白かったので、二人の共通するところ、違うところ、いろいろ考えてみたいと思っているところなのです。

 ご指摘のとおり、インタビューの中で谷口監督は、あまり富野アニメを見ていないと言ってます。私が書いたのも、作品の内容面の話ではなくて、「アニメーター出身ではない監督」という立ち位置の話をしたつもりだったんですが、わかりにくくてすみません。

「当時の演出家はほとんどがアニメーター出身なの。テレビシリーズのスピードに合わせて絵コンテを切っていくには絵が描けねえと結構しんどくて、当時日大の映画科出身者なんかが演出を目指したが、そのあたりで躓(つまづ)いてアニメーター以外の演出は虫プロではなかなか育たなかった。例外が富野さんね。彼だけが負けん気と才能と努力でその壁を越えて行った。」

 これは高橋良輔監督の「新・小説VOTOMS いちぶんの一」という連載の中の言葉です。そこで言われていた、かつての「アニメーター至上主義」という言葉と、谷口インタビューの中にあった「クリエイター至上主義」という言葉はよく似ていますよね。

 たぶん谷口監督は、富野監督を特別リスペクトなどしてないのだろうと私は思います。
 ただ「是非の両面」と私が書いたのは、同じサンライズで同じくアニメーター出身でない監督が仕事をするのに、先人の業績の功と罪は当然思慮に入っているんだろうと私が思ったからに過ぎません。「罪」のほうで言えば、反面教師ということにもなるでしょうね。

「歌舞伎や落語も生き残るために権威を必要とした。アニメも同じです。なら、今考えねばならないのは、その権威を護るのか、壊すのか。」

 恣意的な妄想で何が言いたいんだろうかと問われると、その当然のことをいちおう書いてみて、自分で呑み込みたかっただけのことで、格別それ以上の趣旨もない自分用のメモです。
 ただ、この辺の話は、富野監督が近ごろよく言っておられる「芸能」とか「エンターテイメント」とかの話に引きつけて読むことはできますよね。(言い回しが違う分だけ、かえって分かりやすい部分もある。ただ、富野監督が言ってさえ「・・・?」と思ってしまいがちな、なかなか難しい話ではあります。)
 影響を受けるといった関係でないなら、なおさら、異口同音に同じような問題点を指摘しているのかどうか。そうしたあたり、ごく個人的な感想ですけれども、とにかく興味が尽きないのです。

スポンサーサイト

フィクション=「平気でうそをつく」=邪悪なもの?? 

[2008/06/20] | 御大 | トラックバック(2) | コメント(2) | TOP ▲

 kaitoさんに刺激されて、久しぶりに富野御大のことに触れた記事を書いてみたのですが、いつもながら読み応えのあるコメントをいくつもいただいて。
 忙しいのは一段落したのですが、気が抜けたのか、あまり体調が冴えず、また、いろいろ惑いながら書いていますので、ひどく文意の酌みにくいものを読んでいただいて、ありがとうございます。

そして「平気でうそをつく人たち」(編注)という本を読んで、人間というのはすべてを、個だけではなく組織自体が忘却するという心理的な側面をもっているというのがわかった。これまでのガンダムを全部事実だというふうに肯定してもいい。肯定したことも含めてすでにウソかもしれない。肯定するということ自体、それをする人にとって過去は、本当にあったのか、なかったのかということも全部疑問符をつけていいもんなんだってわかった瞬間、「∀」のというより、ロランやディアナ、キエルの物語をつくり出せたんです。

平気でうそをつく人たち―虚偽と邪悪の心理学

自分の非を絶対に認めず、自己正当化のためにうそをついて周囲を傷つける“邪悪な人”の心理とは? 個人から集団まで、人間の悪の本質に迫るスリリングな書!

(amazon「出版社/著者からの内容紹介」)

 元記事の元記事(笑)から、もう一度読み直してみました。私は(↑)この本は読んでないのでそこは軽く読み飛ばしちゃってたんですが、のりのりさんが、「あの本(「平気で嘘をつく人たち」)を読んでああいう認識にいたるの!???」と反応しておられたので、どんな本なのか(by amazonですけど)見てみました。
 未読なのにいい加減な解釈をしちゃいますが、“世の中には、そういう邪悪な人も存在しますよ”って趣旨の本を読んで、富野監督は“そういう性質というのは人間全般に多かれ少なかれ偏在している”という認識に飛躍しているんですかね?

 ここは『∀ガンダム』についての話なので、「うそ」一般についての話と言うより、フィクションについての話として私は読んだのです。ターンエーには白々しいフィクションがけっこうありますよね。まあ、そもそもロボットアニメなんて・・・というのは脇に置いても。ロラン・セアック(男)がローラ・ローラ(女)とか、ディアナ・ソレルとキエル・ハイムの入れ替わりだって、もっと早く気づくだろ(笑)、というようなものです。
 平気でうそをついているんですね。

たとえばSF作品であっても、SFがわからない人が見てもおもしろかったよねって言わせるのがビジュアル媒体だと、僕は基本的に思ってる。で、僕の場合というか、僕らの世代はそれをずっと映画的なものというふうに考えていたわけです。映画一般なんです。SFであろうがポルノだろうが、文芸映画だろうがいっさい関係ない。みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」というのが映画であるハズなんです。ところが、それを一生懸命区別をつけようとしている人が、たとえばアニメというものを、とても幅の狭い媒体におとしこめているということです。

 それが(↑)このへんに繋がってる。(富野監督にとって、「映画」的=みんなで見て「よかったよね、おもしろかったよね」だっていうのも私には“そうなんだー”って感じでしたけど。)
 端的に、“うそ=邪悪”という枠組みではない。

「初代ガンダム」って、「正義と悪は相対的なものだ」という見方を始めて明確に打ち出したTVアニメだと思うんですけど、「∀」になると、そもそも正義とか悪とかという概念自体がない

・・・と大森氏が指摘してるのも、そのへんなのかなーっと。「白富野」は人が死なないから正義だったり善だったりするんじゃなくて、「平気で嘘をつく」ような、したたかなタフネスさ(=しなやかさ)が話のキモだってことですね。
 その、“あえてフィクション”ということの意味を、少し拡大して考えてみたいと思ったのが前回の記事です。
 「例え“目の前の現実”であってさえも、一人の人から見えていることというのは、常に“一面の真実”でしかないという。・・・その危うさを自覚しながら、それでも敢えて何かを語らずにはいられないんだという、そういう覚悟」のことをいきなり書いてしまったんですが、バルタザールさんが指摘されたように、人間の認識力の限界に絶望するべきではないと私も思います。
 それと同様、“メディアを通して知る現実”も、無意味なのではなくて、その危うさを覚悟するという条件のもとで価値はあるし、そのときに手がかりとなるものは“目の前の現実”しかないでしょうね。多分私が言いたかったのは、“身体性”のないフィクションだけで、ものを考えるのは危険じゃないかということです。

  • フィクションであるというその時点で、それは現実に対する一つのメタファー(暗喩)を構成しているとすれば、さらにその中に配置されたメタファーを必要以上に分かりにくくするのは、内向きに閉じた自己満足でしかない
  • “分かる人には分かる”というメタファーの置きかたのほうがそれはカッコいいんですが、それは技術論でしかない

 それから、(↑)メタファーについてこのように書いたのは、kaitoさんの記事にあったオタキングのコメント(「コクピットは元々子宮のメタファーなのに、富野さんのはモロ子宮じゃん」)に直接的に反応したものです。
 「分かる人にしか分からない」というのは、カッコわるいというバルタザールさんの意見に共感するんですが、のりのりさんの冷静な指摘で、少し思い直しました。
 ここでの話の流れからすればむしろ、どうやったって分かる人にしか分からないという認識を、諦観ではなく覚悟としつつ、それでもなお「みんなが見てわかるような映画をつくればいいじゃないか」とオープン・エンターティンメントとしての機能にこだわり続ける富野監督にもっと学ぶべきなのかな、と。

本来、ミーハーの大衆というところに落としていって、わーい!と楽しんでもらえるものをつくりきれないというあたりでは、メジャー狙いをしようと思って一生懸命背伸びをしている人間としては、なんだかんだ言いながら映画屋になり切れない自分を自覚する

 だから富野監督、大好きです!(結局そこかよ。) (*^。^*)

ある種のプロ論? 岡田斗司夫の『遺言』第五章 レポート感想 

[2008/05/05] | ネット巡遊記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 引き続き、低空飛行継続中です。今月下旬まではこんな感じ。どうにもこうにも。

 期間限定とかいろいろあるんだけど、休めないし。もう基本あきらめる方向で。ちょこちょこっと空いた時間に気分転換であちこち覗いてみるのが精いっぱい。

 きょうはこちらで紹介されていたリンク先「冒険野郎マクガイヤーの人生思うが侭ブログ版」を拝見。

 「ふしぎの海のナディア」の話がメインで、ガイナックス好き、ナディア好きには美味しい話なんだろうと思いながら読んでましたが、私、あんまりナディアって得意じゃなかったんですよね。

日本アニメの黎明期ではなく、青春期に立ち会えたのは幸運だった。「俺達の熱い思いが伝われば、視聴率なんてどうでもいいぜ!」みたいな考えが受け入れられた。そして、アニメが生活の手段になる前に辞めることができた。

 明け透けに好きなことを言うなぁ。ついつい富野監督の顔を思い浮かべながら読んでしまいました。

そもそも、一年間のTVシリーズのような長いアニメを作る時は、最初の段階から一年分の脚本が完成しているわけではない。視聴者やスポンサーや様々な人間の反応をみて軌道調整していくわけで、シリーズの終わりのほうになると、色々な要素がどう転がっていくか分からない。

だから、シリーズ開始前の初期設定の段階で、布石となるキャラクターを置く。例えば富野さんは「ガンダム」において、カイ・シデンやハヤト・コバヤシが最後はあそこまで転がっていくとはシリーズ開始前に予想していなかった筈。あたかも将棋を指すかのように登場人物をうまく配置した結果、意外なところで活きてきた。

これが僕達の世代のクリエーターは苦手である。一見無駄と思えるキャラを容易に配置できない。将棋に対するチェス型で、終わりに近づく程どんどん動かせるコマが少なくなっていく。キャラが使い捨てられていく。

 でも、こういうことを率直に言えるのも、オタキングならでは。こういうキャラクター論はとてもよく分かります。

しかし、僕たち実際族の思いとは裏腹に、「ナディア」最終回はどんどんキャラクターショーになっていった。でもそれが面白い。庵野は予算的にも時間的にも不利な状況で、しかも「チェス型」のキャラ配置という理由から動かせるキャラが制限されていく中、よくこの最終回を作った。

 こう分析されると、『ナディア』という作品のこと、自分が感じた内容が少し分かった気がしました。

以前は「言いたいことを言わなければ損だ」と思っていた。

それが、BSマンガ夜話なんかでちょくちょくTVに出るようになって、「なるべく楽しそうな顔をして、楽しそうな話をしなくては」に変化してきた。

現在は「TVとは時間と季節を表すショーウィンドーである」と考えている。茶室の中にある花のようなもので、そうでなければあんなに黒くて大きな物体を部屋に置いておく必要はない。TVに出演するということは、その中のパーツの一つになりきるのが正しい。

大学で講義をするということも同様。アカデミズムとか良い授業をするとかが重要なのではなく、いかにも大学で講義していそうな人の顔をして、いかにも二十歳くらいの人の心に届きそうなことを言うのが重要。

これは、諦めているのではなく、「形から入る」という考え方に近い。そこで求められる風景の一部としての自分になりきる。その風景が空気を作り、時代を作る。

 今回、この記事を読ませてもらったことを書き留めておこうと思ったのはここの部分。

 まあ「アニメが生活の手段になる前に辞めることができた」と言える人だから、こういう考え方になるんだろうし、「そこで求められる風景の一部としての自分になりきる。その風景が空気を作り、時代を作る。」っていうのは、時代の空気の成り立ちについて的確な分析なんだろうなぁと感心もしました。

 だけど、やっぱり違和感があるのは、そういうアニメの「青春期」が過ぎちゃったことは百も承知で、製作の現場に向き合い続けている人もいるのになぁという感覚です。なんか、ちょっと悔しいんですね。(笑)

 求められる自分になりきって、対象世代の心にちゃんと届きそうなことを言いながら、なんとか「言いたいこと」を入れ込めるように、みんな苦労してるんじゃあないのかなぁと。
 ただ、それが必死さが出ては駄目なんで、「なるべく楽しそうな顔をして、楽しそうな話をしなくては」というところが、ある意味では現代のプロ論なんでしょうね。そこは納得。

映画「トランスフォーマー」 どうもなんだか・・・ 

[2007/08/18] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(8) | TOP ▲

 ブログに書かなきゃいけないことは、いろいろたまっているんですが、忘れないうちに。(笑)
 やっと一日夏休みをもらえたので、(でも、この暑さでアウトドアもあり得ず、)たまには映画館で映画を見ようかと出かけてきました。公開前に一度、アメリカで大ヒットらしいと聞いて記事を書いていましたしね。

 で、いちおう見たんですけど、・・・それ程不出来ってわけじゃあないんですが、個人的にはあんまり楽しめなかったなぁと。これはあくまで私の場合ですけど、ついつい“ヲタなロボットもの”の短所、欠点のようなものばかりが気になってしまって。

 映像、特撮は、さすがハリウッドクオリティですばらしい。申し分ないです。まあ、そういうのも作画ヲタ的かな、と思ってしまうんですが。それよりロボットアニメを一般の人に見せるとよく言われる、「どれが敵でどれが味方かわかんない!」というヤツを、かなり激しく感じてしまって。いちおう公式サイトとか、ひととおり見て予習していってるんですけどね。(私、アニメ版のほうはチラッとしか見たことがありません。)

 ストーリーのほうですが、“オートボット”側と“ディセプティコン”側の闘争みたいな設定が、「ムダに詳しい」と言うか。まあそれより主人公“サム”はあんなに「S○Xしたい」気持ちが全面に出ていてオイオイと言うべきか。(そういうの、分かるし、あってもいいと思うけど、あんまりてらいもなく描写されると、ちょっと辟易としてしまう。この作品はどんな年代を対象に考えているんだ?)

 スピルバーグが“ロボットもの”をやったらどうなるんだろう、というのを見てみたくて劇場に行ったんですけどね。だからオタク向けの狭いところ狙いじゃなくて、メジャーな人たちに開かれたエンターテイメントとして機能するロボットものの方法論というのはどうなんだろうかという関心で見ていたんですけど。
 なんて言うか、極論を言えば、これじゃあ“日本のアニヲタの見るロボットアニメのデッドコピー”というのに近い個人的な印象で。確かに悪くはないんだけど、この程度なら、日本のロボットアニメのほうが、作劇もしっかりしていて、ちゃんとエンターテイメントになっているものが多いような気がしました。
 これが大ヒットするって、アメリカにもオタクが多くなっているってことなのか、単にスピルバーグというブランドの威力なのか。ちょっと残念でした。

「意地を通して信念に死んで行く男の美学」 

[2007/07/17] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(0) | TOP ▲

 元はといえば『機動戦士ガンダム0083』でのアナベル・ガトーの最期っていう話なんですけどね。

私このパターン嫌いなんだな。より詳しく言えば、そこで「意地を通して信念に死んで行く男の美学」みたいなシーンに酔って感動することに、私の中でいつもストップがかかるんですね。何故だか。

・・・とzsphereさんがおっしゃったのに、同感してコメントしたのが話の始まり。

カオスの縁 ――無節操日記 -  「名誉に死んで行く男の美学」の可能と不可能

 改めて問題提起いただいたので、考えてみたいんですけど、ここで書くことは、アニメとかマンガとか、そういうフィクションの中での表現のあり方という話です。

 「意地を通して信念に死んで行く男の美学」っていうと、真っ先に私の頭に浮かんでくるのは、松本零士の『戦場まんがシリーズ』だったりするんでした。(世代だなぁ。)

 スタンレーの魔女鉄の墓標オーロラの牙 わが青春のアルカディア衝撃降下90度悪魔伝の七騎士復讐を埋めた山勇者の雷鳴曳光弾回廊、・・・このへんですね。正直に言うと、モロにはまっていたと思います。アニメで言ったら、『銀河鉄道999』の中でキャプテンハーロックが「男には、負けると分かっていても行かねばならないときがある」って名セリフがあって。シビれました。

さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~【劇場版】

 『さらば宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士たち~』にもね、スゲー感動しました。だからその後で作られたTV版の『宇宙戦艦ヤマト2』で、ヤマトが最後に体当たりしなかったのには、正直もの凄く落胆し、ほとんど憤りさえ感じました。そんなの続編を作りたいだけの詭弁じゃないかと。

Zガンダム以降の富野作品における特攻は大抵無様に失敗する。もしくは「特攻なんて時代錯誤なことをやってる自分が恥ずかしい」という「照れ」がある。

 psb1981さんが富野アニメの中での体当たりについて、こう書いておられますけど、私も同感。
 「自分のために。趣味で死ぬ」というのは、松本零士で言うと『戦場まんがシリーズ』はまさに(くどいぐらいに)そうでした。しかし『さらば~』はそうではない。松本零士が「特攻を美化するとして良しとせず」って、本当なんだろうか、と今でも思いますが、だとすれば、一線はそこにあるんでしょうね。

 でも今だからそう思えますけど、子どもの頃は、“オレも愛するものを守るために死にたい!”とか、ベタに思ってましたよ。愛するものもなかったくせにねぇ。(笑)
 だからララァの「あなたには守るべき人も守るべきものもないというのに!」(「光る宇宙」)っていうセリフには、意外にぎくっとしました。

こういう子って、青春しているクラスメイトを「平和ボケした愚民どもが!”いざ”となったらそうはいかんぞ」と心の中で罵りながら、その「いざ=世界の危機」を待ち望み「そうなれば自分だって主人公に…少なくとも今よりマシな境遇に…」なんてぼんやり考えていることが多い。日常の中に居場所を上手く見つけられず、非日常の世界へ行きたくて仕方がないのだ。

・・・とpsb1981さんが言われたのは、まさに私のことだなぁ。(苦笑)

 Zガンダム以前の富野アニメで言うと、例えば『ザンボット3』や『ダンバイン』での体当たりは「自分のために。趣味で死ぬ」とは言えませんでした。「為すべきと信じたことを持てる力の限り行った先に、“魂の安息の場”があると信じて生きる(そして死にゆく)ということについては、どれだけ考えても考え足りないですね」と前に書いたとおりで、割り切れない思いは今もあります。
 あれらの作品では、体当たりの瞬間に潰れていくコックピットやブリッジの描写がやけに印象に残っています。あんな怖さや、割り切れない思いを残して、エンターテイメントとしてどうなのか、というのはもちろんあるんですけどね。

 『Vガンダム』での体当たりの描写のしかたでは、もう少し違う意味で割り切れなさが残っているのはオリファーさんの最期です。ルロイさんの「Vガンダムの思い出」の中では、子ども心にも「大爆笑」になってしまうぐらいの無意味さ、無様さ。“男の美学”みたいなものから言えば、これほど酔えない、感動のしようもない死に様をどう考えていいのやら。

ぼくみたいにかなり意気地のない男の子でも、ひょっとしたらそういう人間局面に立ったときに、女房子供のために「おめえ、たたき殺してやる。女房子供には触れさせねえぞ。逃げる時間ぐらいはもらうぞ。」というふうに考えて、死んでいけるだろうなってことを、少しは想像できるようになりました。

・・・と富野監督自身は『戦争と平和』の中で述べているそうです。
 『ダンバイン』で痛感したのは、王道をもって覇道を退けようとするような“聖戦士”には、生命を賭けても成し遂げねばならない使命があるということだったんですが、それはエリート論でもあります。精神年齢は“お子チャマ”なところもある私のような凡俗は、身の丈に応じて読み取るように、少し注意していないとヤバいのかも。(笑)

 “聖戦士”の話で言うと、痛々しくもこっけいなサコミズ王の物語、『リーンの翼』に触れないわけにはいかないですね。

リーンの翼 6

「生き神様でした」
のあとの言葉は、褒め称えてくれたでもなく、感謝してくれたでもなく
「憐れんでくれた」
という言葉でした。サコミズは戦火の中に放りこまれた人々を哀れみ悲しんでいます。でも、サコミズ自身も憐れんでほしかったのです。
国家のためとはいえ、自分が死ななければならない。それが簡単に受け入れられるはずがない。それでも無理をしてどうにか自分を納得させて、せめて自分の死が残って生きる人にとって意味のあるものなのだと何度も自分に言い聞かせて、死出の旅路に出た。
そんな境遇に追い込まれたことを、共に悲しんでくれる人がいる。 それが最大のなぐさめになったのでしょう。

BWT // 雑記帳 / アニメ リーンの翼 感想2

 戦争というのは、“勝てば天国、負ければ地獄”に思えて、その実態は勝っても負けても畜生道の地獄絵図だ、という認識をなくしてはならないと思うんですね。そこに“生と死”が凝縮しているから、物語の題材にはなりやすいんですけど。

 自戒を込めて言うと、凡俗って言うのは“カッコいい死に様”には簡単に憧れちゃうもんだと思うんです。だからガトーみたいな最期はエンターテイメントとしては最高ですよ。ただ、彼のああいう最期を憐れむ気持ちには、私はどうしてもなれないんだなぁ。それは一言で言えば、『0083』の物語の作り方のずさんさゆえなんですが。
 富野さんという人は、エンターテイメントということをとても強く希求しながら、でも、最後の最後のところで安易にエンターテイメントに落してしまうのではなく、ぎりぎりの割り切れなさを描かずにはいられない人だと思います。私なんかは、そこの不器用さがたまらなく好きなんですね。
 その富野監督が立ち上げた宇宙世紀のガンダム世界の隙間を狙って、設定がキレイにハマることを物語よりも優先して作ったように思える『0083』という作品の中で、ガトーというのは、ただカッコよく物語を終えるために死んでいったという気がするんです。だから、ガトーというキャラクターは嫌いじゃないかもしれないんですけど、そういう物語の作り手を、私はどうしても認める気にはならないんだなぁ・・・。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。