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宇野常寛さんの「富野由悠季」観 

[2009/12/16] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(3) | TOP ▲

 最近、twitterなどというものを始めてしまって、そのへんでブツブツつぶやいていると、何か話したいことは話してしまったような感覚もあり、気がつけば12月ももう半ばなのに、今月初めての記事じゃあるまいか。(笑)

 だいたい12月というのはあれもこれもと気ぜわしく、1年で一番嫌いな季節といってもいいのです。定番BGMは中島みゆき『十二月』 on 「グッバイガール」(歌詞はこちらに。)。

 何しろ書きかけている記事はいくつもあり、たいした内容でもないのだけど、書き上げようという気力が湧かないのであります。

 twitterでは氷川竜介さん藤津亮太さん小黒祐一郎さんの話などをいつも興味深く読ませていただいてますが、最近、宇野常寛さんが富野アニメに言及されたツイートが面白かったので、今日はちょっと勝手に編集してメモしておこうかと。

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何度でも観ましょう!『リング・オブ・ガンダム』 9月21日まで! 

[2009/09/13] | 感想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 富野由悠季監督の待望の新作フィルムであるから。たとえ5分ほどの予告編めいた短編であっても、この目にできることはうれしいし、何度も繰り返して観てしまっています。

 音楽のことはよく分からないなりに菅野よう子の音楽が凄いなと思ってましたが、繰り返し聞いているうち、冒頭から最後まで、ほぼ完全にひとつの曲として通っている感じがしてきました。これ、音楽だけのバージョンっていうのも聴いてみたいぐらい。
 っていうか、ドラマの盛り上がりと曲調の盛り上がりが本当に見事にシンクロしていて、絵があって曲を作ったのか、曲にあわせて絵を作ったのか、そんなことも不思議に思ったり。

 主人公エイジィを演じている(3DCGのモデルでもある)川岡大次郎さんは『仮面ライダーディケイド』なんかにも出ている役者さんらしいです。イケメンライダーですな。w

次世代の新機軸ガンダム「Ring of GUNUDAM」のキャラクターの声と動きを演じてます。 僕とほぼ同い年のガンダム。 俳優として、今、こういう形で、ガンダムに関わる事ができて光栄です。

 ヒロインのユリアを演じている平田裕香さんは『獣拳戦隊ゲキレンジャー』で、悪のヒロインを演じられたそうです。画像検索をするとびっくり(笑)しますが、グラビアアイドルとしても活躍中だそうです。

ガンダム 30周年記念作品【リング オブ ガンダム】 に関わらせていただきました☆ あのガンダムの生みの親、富野由悠季原作・総監督で、 音楽は大好きな菅野ようこさん。 その他にも、豪華スタッフ陣

リングオブガンダム、 ただいまインターネットで公開されているんですってよ! 短い時間だけど、すんごい世界観があって、想像を膨らませるとどこまでも広がっていきます。 見てみてくださいな☆

 ふふふ(笑)、芸能人の方のブログなんて、初めて読ませていただきましたよ。

 あと、私はアニメファンなんですけど、声優さんにはちっとも詳しくないので、ビューティメモリーの声を演じられた小清水亜美さんが、『エウレカセブン』のアネモネちゃんで、『コードギアス』の紅月カレンで、『狼と香辛料』のホロだと知って、ビックリしちゃいました。(無知でゴメンなさい!)

 サウンド面では、富野監督も「天才」とシャッポを脱ぐ菅野さんの音楽が、もうそれだけで世界観を作っていて。そこへ物語が乗っかっていくというか、絡んでいくというか、拮抗しようと立ち上がってくるというか。いわゆる「富野節」というのも、耳から入ってきたときの音の切れとかリズムとか、そういうものでもありますし。
 流れがギクシャクしていると地の文でベタベタに説明しないと表現は伝わらないんですが、「本線の情」にすーっと乗っていれば、むしろテンポが重要なんだと思います。「予告編」ではなく短編アニメーションと考えれば、当然のように内容は象徴的なものになりますし。(まあ『ガンダム』と思って見に行ったらアートアニメーション的なものであれば、戸惑うこともあるでしょうけど。)

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情動とロジック 作家性と公共性 

[2009/07/19] | 随想系 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 長文のコメントをいくつもいただきましたので、本文でコメレスさせていただきます。TOMMYさんが「私の履歴書」富野アニメ体験プロフィール【前編】【後編】というような興味深い記事を書いておられたんで、私もそんなのを一回まとめてみたいんですが、こんな感じでしょっちゅう部分部分の富野アニメ体験を振り返っちゃってるんで、まとめるというと難しいんですよねー。w

ニコ子さん

>だからダンバインやイデオン、皆殺しではないけどゼータなど、「ああ分かる」って感じでした。 嫌悪感どころか共感、ですね。ところが、エヴァにはどうにも共感どころか観ることさえ拒否してしまう自分がいます。

>何でそうなのか、単に捕食シーンや人殺しシーンがイヤなのか分からないんですが、受け入れることは出来なかったんです。
それは多分昔の私と意識が変わったのでしょうね。

 このブログではよく、私よりずっと若い皆さんとお話させていただいたりするんですが、ティーンエージャーのときに観た作品には格別なものがあるというのは、否定できないですね。私の場合はイデオン発動篇に「共感」といいますか、魂を奪われた体験だけは、その後(アニメに関心を失っていた期間を含めて)繰り返し頭の中で反芻されてきた、無比のものです。

 思い出してみれば、その後太宰治とか、遠藤周作とか、青年期らしい青臭さでかぶれた作家というのはいろいろいたんですが、そういう感じ方の根っこになる部分はイデオンで育まれていた(笑)という事実は自分で否定しようもなく、厳然としてあります。

機動戦士ガンダムの時代 1981・2・22 アニメ新世紀宣言

 ただあれが当時の「アニメ新世紀宣言」とか「イデオン祭り」みたいなイベント的な時代の熱狂を伴っていたからそうなのかというと、多少はそうなのかもしれないんですけど、私はそういう第一世代オタク的なものは少し覚めた目で見ていたような記憶もあり、作品の、フィルムだけの力だけで圧倒的だったという思いがあります。

 自分の、そういう体験を踏まえて、エヴァンゲリオンに熱狂する世代の人たちの感性のあり方も理解するように努めてはいるんですが、越えがたい壁があるということも事実です。
 あるいは庵野監督は、当時むしろ距離を置こうとしていた第一世代オタク的なもの、そのものだったりしますから、そうなっているのかもしれませんね。

>他の作品ならOKでしょうが、トミノ作品はその背景を見、トミノの言葉を知らなければ理解するのは難しいと思うのです。

 んー・・・そこはどうでしょうか。昔はインターネットとかなかったし、上記のような次第で私はアニメ誌とかあまり読まない青少年でしたから、富野御大の言葉に接するようになったのは、正直な話、ここ最近のことなのです。
 自分だけの感動としては、作品さえあればよかったような感覚が私にはある(富野小説さえ遠ざけていましたから・・・)んですが、こうやってブログなんかを書くようになって、その感想を他の人と話し合うときに、どうしても微妙な差異があって、じゃあ富野監督本人は何て言ってたんだろうか・・・というような興味の持ち方のような気がしています。個人的には。

 私はアムロ・レイと同い年なので(苦笑)、今の私の歳ぐらいの時に監督は『ZZ』とか『オーラバトラー戦記』だったんだなー(参照:富野年譜)とたまに思ったりします。最近のお言葉は、聞いていてためになることもよくおっしゃっていますが、昔の発言なんかでは、けっこう読んでいても気恥ずかしかったり、アイタタタと感じるものもよくあって。
 ただ、そういうのを含めて(作品だけでなく)あの方の存在自体にちょっと感動するのは、いい大人になってしまって以降でも、真摯に生きていれば人間っていうのは成長できるんだなーと勇気付けられる好例というのが、実はあったりします。

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65万ヒット御礼申し上げます 

[2009/07/04] | ブログ日記 | トラックバック(0) | コメント(1) | TOP ▲

 このブログに設置してありますアクセスカウンターの数字が65万を超えました。6月の更新も月間最低記録タイの5回だけ(最低記録を更新したのは4月・・・)っていう低空飛行を継続中で、これまでだいたい3ヶ月に5万ヒットというペースを維持してきたんですけど、前回60万ヒットのご報告から約4ヶ月かかっての節目報告になっております。

 この間にちょっとアクセスの多かった記事というと一つしかありません。

たかが『感想』なんていうな!
『感想』は実は難しいんだよ!!

 難しさを骨身にしみて味わい続けている今日この頃です。(笑)

 特に今は『Zガンダム』のテレビ版を見直しているのでなおさら。

 あ、仕事の超忙しいモードは、ようやくひと段落しました。もう死ぬかと(苦笑)。
 それで『Zガンダム』の最終巻を何度か見直していて・・・なんかいきなり、矢も盾もたまらず衝動的に『星の鼓動は愛』を見てしまいました。

機動戦士ZガンダムIII -星の鼓動は愛-

 テレビ版の感想を真摯に書くんだって宣言してたのにねぇ。 ^^;

 その話を書き出すと、最終巻の感想が書けなくなっちゃうので、あんまり触れずにおきますが、やっぱりトラウマなのかなぁ。

 その代わりにトラウマ話のついでといっては何だけど、新劇場版ヱヴァンゲリヲン祭りにイマイチ乗れない自分というのを考えていて、どうもその、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品自体にそもそもあまりハマれていなかったからなんだろうと。
 それはどういうことかというと、私は人生で一番多感な時期に、『伝説巨神イデオン』のあの発動篇を直撃で食らっちゃっているんですよ。これはもう、絶対的なアニメ体験になっちゃっているんで。(あくまで個人的な話ですが。)

 ただ、「この体験を超えるものは絶対にないだろう」という確信を揺るがしたのは、『ブレンパワード』だけでした。(『∀ガンダム』よりブレンなんです。個人的に。・・・説明不能ですが。)

 だからエヴァの新劇場版がブレンぐらいにヴィヴィッドな展開をここから示してくれるなら話は別ですけど、とてもじゃないが結末まで見ないことには手放しで褒めるなんて無茶はできないんです。断然、保留。

 まあ、それはともかく。発動篇は「禁じ手」を使っちゃったという言い方があるんですけど、あれは一生懸命やってたらああなっちゃったと思うので、受け止めようはあったんです。
 だけど『Z』のテレビ版の結末も禁じ手だったんじゃ?・・・それも半ばは意図した禁じ手。そういうものは受け止めきれない。

 受けずにそのまま流すのは、どうもねぇ。

 考えてみれば、『Zガンダム』をもう一回見ても大丈夫じゃないかって思えたのは劇場版の新訳Zがあったからこそなんで。『星の鼓動は愛』を見ずにはいられなくなったのも、そんなに否定することじゃないのかもしれません。

 まるきり個人的な話に終始してしまって申し訳ありません。
 更新ペースは思うように上がらないかもしれないですけど、ぼそぼそと感想を書き続けていきたいと思いますんで、よろしかったら引き続きお付き合いくださいませ。

「夢みたくとも夢みるものを持ち得ないということは空でありすぎる」 

[2009/05/11] | 御大 | トラックバック(1) | コメント(1) | TOP ▲

 物語の作者に近い存在の「自分語り」を初期の富野監督が書いたことがあります。『伝説巨神イデオン』の無限力“イデ”のことですけどね。
 小説版第3巻「発動篇」の最後のパートは、物語の謎解きでもありますが、同時に、神の視座にもなり得る物語作者の立場を自己表明したものというように読むことも出来るでしょう。

伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇

 それは「雑多」であり「混沌そのもの」である己への戸惑いから書き始められます。

この己のありようが雑多で、時も所もわきまえずにぐるぐると時空をかき乱して果てる存在のように思えた。それは不愉快なものであると感じる思惟が己の中心にあった。

 このように感じる己はあまりに不定形で、己のありようを示すべきものを有していない。
 けれど、不愉快と感じ得るのは「己があるからであろう」という推測もできる。それは不自然。

 このような「自己嫌悪と己の不在」が始原にあって、イデは「己のありよう」を最小のものとすることを思い立ちました。「その己の賢明さに己がたくわえた思惟は答えてくれよう」というのはイデの「願望」です。

 そうしてまどろみから目覚めたイデは「キラキラと輝く思惟」を見ますが、同時に「それもまたひどく雑多で煩雑」なことに気づきます。

しかし、初めての目覚めにくらべればより明確な思惟の数々を己の中にとりこむことができた。健やかであり得る力を己の中にたぐりこむことができる。

 ただ、その思惟たちは、イデが「最も願望したもの」をかねそなえてはくれない。

 そうしたものを認めることは己を汚すことではないか、とイデが「恐れ」を抱くことについては、私もたしかに「イデのエゴイズム」ではないのかと疑念を持ちます。
 しかし、その恐れには根拠があるのだと、イデは言うのです。「イデ自身が健やかな発生ではないからだ」というのは、「自己嫌悪と己の不在」がその始原にあるからなのでしょう。

己の願望という欲を示すから我が生まれ、我が生まれるからより雑多な欲が発生するのではないだろうか?

 ところで、ここでちょっと『イデオン』の話を離れて、ネットで拝見した富野由悠季論に言及します。

現実に「残酷」という側面は確かにある。その側面を誇張できる虚構を素晴らしいと思うことも多い。
しかし、残酷な展開や描写ができれば良い作品になるかというと、必ずしもそうではないだろう。いってみれば、声優の演技が巧いだけのアニメや、絵が奇麗なだけのマンガといったものと同じようなものだ。作品全体にとっては、「残酷」な描写や展開を用いて、どのような物語を作り上げていくかが重要ではないだろうか。

 この部分について賛成です。ただ富野由悠季作品は「残酷」や「矮小」を克服しようとせず冷笑的に映し続けるだけだという判断には同意できません。
 ですが、hokke-ookamiさんは「嫌い」だけで終わらずに、高橋良輔監督や出崎統監督との対照をちゃんと明示しておられるので、富野作品の特異点を外側から規定してくれているのは、私とは違う立場からの真摯な指摘として興味深い記事だと思いました。

人物の地に足がついた行動ではなく、唐突な言動による事態好転や、人が介在しない架空設定によって救いが与えられる。それは克服ではない。

 主人公たちの「地に足がついた行動」によって「現実の残酷さ」を「克服」することが大切ではないかという問いだと思います。物語の作者として、何故富野はそうしないのか、と。

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